美しいものを見ること

私は美しいものを見ることがあまり得意ではない。
特に夕焼けとか、星空とか、赤ん坊が笑っている顔とかそういう不連続的な、一過性のものが。

美しいものが嫌いとか、醜く見えるとかそういうことではない。美しいものは美しいと思える一般的な感覚は持っている(はずだ)。

理由は簡単で、美しいものを見ると心が痛くなるからだ。

物心ついた時からそうだったのなら、自分がそういう類の人間であるというだけで別に不思議はないのだが、残念ながら昔は無邪気に喜んでいたのである。

どうしてそうなったのだろうか。

辛く感じるようになってしばらくしてから、今からすると随分前から、その理由が分かるようになった。

美しいものを見ることはそれ自体の感動より、その感動を「ほら、見て」と誰かに伝えて、たったひとこと「本当だね」と言ってもらえることの方が価値があるのだろう。

もうこうなると、美しいものでなくても構わない。面白いものでも興味深いものでもなんでもいい。自分の知覚や感覚に同意してもらえることは、精神の充足にとても大事な要素なのだと思う。

伝えたくて、共感してもらいたいその相手が、自分と同程度かそれ以上に感銘したとわかれば、心が満たされ、自分が肯定されたように感じられ、この人と一緒にいてよかったと思えるのだろう。

今隣にいれば必ず伝えるのに、そして絶対に喜んでくれるのに。それがわかるから、そしてそれが不可能なことだから辛くなるのだろう。
とんでもなく自分勝手な感動の仕方だけれども。

そんなこんなでこのブログも5年目に入ります。

私がキーボードを愛する理由

私はキーボードが好きである。愛してやまない。
どんなキーボードであっても、ただ見ているだけで満たされるのだから、一種の偏執的で変態的な愛情といって差し支えない。

今まで何度キーを叩いたろう。今だってこうして叩き続けているし、机上ですべての指をキーに触れながら息絶えたら、それはそれで満足かもしれない。

「職人は道具を選ぶ」というが、我々にとっての道具とは、PCでありマウスであり、ディスプレイである。
そしてその中でも、指先というもっともセンシティブな部位で、自分の意志や思いのたけを形にして、外に叩き出すのがキーボードだ。

コンピュータが日に日に進化し、小さくなっているのにもかかわらず、キーボードだけはいまだもって形を変えない。
それを「キーボードの呪縛」と呼ぶ向きもあるが、私も確かに、どうにかしてもっと効率の良い革新的な入力デバイスが誕生しないものかとは思う。

しかし同時に、現時点でこのQWERTY配列のキーボードは、指先を通じて意志を伝える至高のツールであると感じている。携帯やスマホの入力がどれだけ速くても、キーボードの優秀さには絶対にかなわないのだ。

はじめてキーボードに目覚めたのは、同僚が触っていたFILCOのメカニカルタッチに触れた時だ。
PCに付属している純正のキーボードしか知らなかった私は、その小気味のいい打鍵感に衝撃を受けた。

矢も盾もたまらず、その週末勇んで量販店に赴いた私は、しかしいかんせん、メカニカルタッチは周囲に人がいる状況では音が出過ぎることに気づいてしまった。

悩んだ末、私は同じFILCOのmajestouchを購入することにした。
FILCO Majestouch2 108フルキー茶軸日本語配列 USB&PS2両対応 Nキーロールオーバー対応 独Cherry茶軸採用メカニカルキーボード ブラック FKBN108M/JB2
その快適さはいうに及ばず、キーの表面の象牙のような感触と、カッチリとした反発が私を陶酔させた。
あまりに酔い過ぎて、画面をロックして意味もなくキーを叩き続けたほどである。

そして時を経た今、この文章を叩くのに使っているのが、史上最高のキーボードと名高い、東プレのREALFORCEである。
東プレ Realforce108UDK 静電容量無接点USBキーボード 日本語108キーかななし 昇華印刷 墨モデル Nキーロールオーバー キー荷重ALL30g ブラック SJ38C0
しばらくmajestouchと並行して使っていたし、そちらの方が自分には合っていると感じていたが、今はこのREALFORCEの「史上最高」の意味が分かりはじめたように思う。

指に吸い付くようなキータッチ。
「スコッ」という、抜けるような打鍵感。
長時間叩き続けても疲れにくいメローな反発。
触れ続ければ、口よりも饒舌に何かを語ることができるような気さえする。

とはいえ決して安くない、むしろ高い買い物であるから一概には勧められないけれど、純正のキーボードしか使ったことがないという方は、一度量販店のキーボードコーナーで叩いてみてほしい。

今までのキーボード体験はなんだったのかというくらい、異次元の体験ができるはずだから。

本物のプロは、謙遜できない

知り合いに、恵まれた容姿を売りに飯を食っている人がいる。要するにモデルとかそういうやつだ。

本人はもっと名を売りたいそうだが、現時点ではとても有名人とは言えない。しかしそれでも、その美しさは一般的な人とはちょっと比べものにならない。

なので、会うと思わず「相変わらずキレイだね」とか「○○さんはキレイだから売れるよ」などと言ってしまいがちで、それは激励の意味もあったのだが、ある日ふと気づいた。

普通の人なら「キレイだ」と褒められて「そんなことないです」と言えるけども、この人はそれができないんだよな、と。
誰がどう見ても美しく、それで飯を食っているわけだから、そこで「いえ、美しくないです」と言えるわけがない。

プロ野球選手に「野球上手いですね」と言ったら、「バカにしてるのか」と怒られるだろう。
それは「野球が上手い」という前提があるからプロなのであって、そこは褒めるべきポイントでも何でもないからだ。

でもそれこそが、本当のプロフェッショナルなんだろうと思う。
否定も謙遜もできない何か一つがあって、それについては一切の言い訳が許されないのだ。

自分にもそれがあるだろうかと考える。
「すごいですね」と言われて、「当たり前だろ、プロなんだから」と答えられる何かが。

楽に腹筋と背筋(体幹)を同時に鍛えられる唯一の筋トレ法

年齢と共にどうしてもゆるくなってくるお腹まわり。
こりゃいかんと腹筋するものの、いかんせん、腰や背中を痛めてしまい中々続かないことが多かった。

そんな折、プロのトレーナーに教えてもらった筋トレ法がとても有効だったので書いてみます。
これだと腰や背中を痛めることもなく、かつ非常に楽にできるのでおすすめです。

やり方は、

  • 1:仰向けに寝た状態で膝を立てる
    2:両手を腰の下にいれる(できればなるべく背中に近く)
    3:入れた手を背中で押しつぶす感覚で力をいれる
  • これだけです。背中の感覚に慣れてきたら、手は入れなくてもよし。
    布団や絨毯など柔らかいところでやれば、腰と背中を痛めずにすみ、腹筋だけではなく背筋と腰、いわゆる体幹を鍛えることができます。腰痛にも非常に効果的です。

    ただ、そんなに高負荷なトレーニングではないので、慣れてきたら背中を押し付けた状態でゆっくり通常の腹筋をやってみましょう。
    普通の人なら5回もやれば苦しいはず。

    寝る前の布団の上で2,3分でできるので、特に女性などにはおすすめです。

    自殺の後始末

    いつも通りの平日の朝。
    クライアントのとある女性スタッフが自ら命を絶ってしまったというニュースは、そんな日常に飛び込んできた。

    我々は、急遽降りかかってきた膨大な仕事に追われることになった。それはほぼ一日中続いた。

    仕事に忙殺されている間、私は少し彼女を恨んだ。
    こんな風に予定外の仕事に追われているのは、彼女が突然死んでしまったことが原因だ。
    彼女は当然、そんなことは知らないだろうが。

    それほど親しかったわけではない。
    会ったのも数回きりで、よく気のつく、いつもニコニコした若い女性という印象。

    信頼するスタッフたちは皆、テキパキと事務的に業務を進めた。
    「(彼女が死んだから)ここのフォロー頼む」
    「(彼女が死んだことでできた仕事が)終わりました」

    まるで彼女はまだ生きていて、口にしたら本当になってしまう。そう信じてるみたいに。

    「彼女はもういない。そのことで発生した仕事も仕方ない、もちろんやるさ」
    それでもやはり、我々はみな大きな喪失感を抱えていた。

    「だけどどうして…… どうしていなくなってしまったのか……」

    どんな個人でも、突然いなくなれば影響が出る。たくさんの人に迷惑を掛けることになる。
    それは仕事の後始末なんかじゃなく、内蔵がえぐられるような心の痛みだ。

    皮肉なことに、その人が傷つけたくないと思っていた人ほど、その痛みは大きい。
    我々は直に通常の生活を取り戻すだろうが、彼女の家族や友人、大事な人達はどうだろう。

    時に死んでしまいたいと思うことがある。

    「死ぬ気で頑張れ」「死ぬ覚悟があれば何でもやれる」
    そう言う人は、本質を分かっていない。もう頑張れないから死んでしまいたいと思うのだから。

    自分の未来を憂い、思い悩む日々がある。自分の存在価値を疑い、自己を責める時がある。
    彼女の苦しさがいかばかりだったのか、私には知る由もない。

    だけど私は、あなたがいなくなって寂しいよ。とても。
    残された者として、あなたのいない日々を暮らしていくのはとてもつらい。

    私は誰かに喜びを与えることができているだろうか。それは分からない。

    でもただ「生きている」それだけで、誰かにこんな大きな悲しみを与えずに済む。
    それだけでも、生きていく意味っていうのはあるはずだろう。そう思わないと、もうここに立っていられない。

    さようなら。またどこかで。