怪物アプリ「LINE」は新しいコミュニケーションを創造したか

携帯用の無料通話、チャットサービスの「LINE」の勢いが止まらない。
ダウンロード数は2000万(国内800万)を超え、各通信会社の帯域は次々に陥落した。

そして周りでも、LINE利用者がどんどん増えている。
特にインターネット初級者、いわゆる「普通の人」に多く、他のアプリはなんだかよくわからないがLINEだけはとにかく使う、という人があふれ始めた。

今回はもはや「社会現象」と言っても過言ではないこの「LINE」人気の秘密を分析してみた。

無料通話

LINEはテキストメッセージだけではなく、音声通話も無料で利用できる。通話品質はお世辞にもいいものと言いがたいが、「無料」の力はやはり大きいだろう。
しかしそれだけでは、競合のSkypeなどに対して優位性がない。LINEの強みはここではなさそうだ。

「スタンプ」の存在

LINEには「スタンプ」という「絵」が数多く用意されており、これらは絵文字とも顔文字とも違う。

例えばこれや

 

 

 

 

 

 

 

これ。

 

 

 

 

 

 

これら一見珍奇なキャラクターたちの人気は絶大で、多くの人が好んで使う。若年層の利用画面を見ると、文字の代わりに彼らで埋め尽くされているほどだ。

LINE上で重要な会話がされることは少ない。言ってみれば「くだらない茶飲み話」をするために利用するのであって、その時に彼らは利用者の言葉を何よりも雄弁に代弁しているのだ。

そして、このデザイン性にも絶妙なものを感じる。
女子高生からオジサンまで、性別や年齢を問わず受け入れられるデザインというのは実は相当難しい。このデザインセンスは、もしかしたらLINE勝利の最大の要因かもしれない。

そもそもスマホ対応の常識は、小さなディスプレイにいかに効率良く情報をねじ込めるかであった。そのために画像はサムネイルになり、記事は「続きを読む」で折りたたまれ、コメントは別ページに遷移することとなったのだ。

しかしこの珍奇なキャラクターたちは我が物顔でディスプレイを占領する。

従来の常識に凝り固まっていては、こんなにでかい「絵」は企画段階でNGとなったはずだ。
これを「面白い。いける」と判断した上層部も大したものだと思う。

返事をしなくて良い

LINEが一時的な流行で終わらずに、今後長期的に利用されるであろうと考えられる理由がこれ。

メールは基本、返信をしなければという心理的な強制力が働く。それゆえに返信がないと途端に落ち着かなくなるものだ。

そしてSNSも、リアクションを要求される類のコミュニケーション・ツールだろう。日記や近況を書き込むのはそれを知らせたいのではなく、リアクションが欲しくて書きこむのだ。

SNSの利点はテキストベースで時間を超えられる(一週間前の出来事にリアクションができる)ことだったが、LINEはそこにもう一度時間の概念を持ち込んだ。

文字を電子化して届けるE-mailでもなく、掲示板に書きこんで公衆に晒すSNSでもなく、場所は違えどケータイを通じて同じ時間を共有し、ただダベり続ける「ゆるいつながり」を実現した。

携帯のアドレス帳は何よりも強固なつながりというエントリを書いたことがあるが、ここをうまく捉えたのも功を奏したのではないだろうか。

ここまで振り返ると、LINEがやっていることは懐かしのICQや、Microsoft、Yahoo、AOLのメッセンジャーのそれであり、それをモバイルに持ち込んだ、というだけの話だ。

しかしFacebookやGoogleもチャット機能を取り入れている中、単独アプリというディスアドバンテージを背負ってもなお快進撃を見せたのは、これら要素が神業的に組み合わさった結果だろう。
LINEは、携帯、チャット、スタンプで新しいコミュニケーションの形を作ったのかもしれない。

スマホ時代の到来と共に様々なアプリが今後も現れるだろうが、まず最初の「覇者」となったのはLINEだったと、後年振り返ることになるだろう。

「すきま時間」の奪い合いからWebビジネスを考える

娯楽に関するWebビジネスについて「すきま時間をいかに奪うか」をキーに考えてみた。

テレビ、新聞、ラジオなどの旧来のメディアも、基本的には暇な時間をいかに奪うかが目的であった。
昔、皆が巨人戦をテレビの前で観戦したのは、野球中継しか娯楽がなかったからとも言える。バラエティ番組もしかり。

しかし今はその可処分時間に対してネットというライバルが現れた。ブログ、SNS、twitterなど、人々はすきま時間に新たな娯楽を覚えたのだ。

そういった意味では、モバイル端末はまさに格好のデバイスだ。移動中、就寝前、休憩時間など、肌身離さず持ち歩くこの端末には、まだ様々な可能性が眠っているだろう。

今や社会現象ともなった「ソーシャルゲーム」も、ゲームとして見れば非常に単純なものばかり。いわゆる「ゲーマー」達が「クリックゲー(クリックするだけの単純なゲーム)」と揶揄するものである。
例えばPCゲームの歴史を紐解くと、このクリックゲーは極端に嫌われた。PCでゲームをするようなゲーマーには、あまりにも物足りないからである。ゲーム開発者たちは、ゲームシステムをより複雑に、グラフィックをより洗練させることでユーザを満足させようとした。

しかし多くのマジョリティには、その複雑さは到底受け入れがたいものだった。結果、誰にでもできるほど単純で、暇な時間を埋められる「クリックゲー」が賛辞をもって迎え入れられたのだ。

ただそのクリックゲーも、家に帰ってリビングでやる人は多くないと考えられる。PCやテレビ、その他多くの魅力的な娯楽に対し、その手軽さは一気に「いつでも出来るもの」に格下げされてしまうからだ。

YouTubeやニコニコ動画などの動画コンテンツもしかり。PCも含め、小さな端末で見るのに2時間の映画は適さない。2、3分、長くて10分程度の面白く手軽な動画を求めて、人々は端末を操る。
旧来型の考えに凝り固まっていると、いかにして映画やテレビなどの旧来のソフトをネット経由で見せるかにこだわってしまう。もちろんそれも将来的に大事だが、今この瞬間に求められているのはもっと手軽に見られるメディアであり、ソフトなのだ。

それでも、ソーシャルゲームやニコニコ動画をやらない人もまだまだ多い。この次に来るものは、果たしてなんだろうか。

手軽、短時間、暇つぶし

これらをキーワードにして考えると、次の波が生み出せるかもしれない。

「ソーシャルメディア」の定義なんて人それぞれ

佐々木俊尚さんTechwaveの湯川さんを中心に「ソーシャルメディア」が熱かったので、どさくさにまぎれて自分の意見を書いてみたい。

少なくとも今の日本では「ソーシャルメディア」という言葉は2つの意味があると考えられ、荒っぽく言うと
1:ブログ、twitterなど、一般人が発する「メディアそのもの」(≠マスメディア)
2:溢れる情報の中から、知り合いを通してより良い情報をフィルタリングする「システム」

今回議論されているのは、主に2の「知り合い」とは誰なのか、ソーシャルとは何を指すのかという点だろう。

私なりの結論から言えば、別に誰でもいいんじゃね? という感じ。
リアルだろうがバーチャルだろうが、著名人だろうが無名人だろうが、自分が信用できる人なら誰でも。

まず、アメリカやFacebookの基準で考える必要はないし、日本や他の国がアメリカと同じソーシャルメディアを形成していく必要もない。
ある一面では、韓国などはアメリカよりもよほど先に「ソーシャルメディア」を形成していたと言えるし、それは「(国民番号を入力して)身元を担保した上でのバーチャル空間上の交わり」というかなり特異なものだ。
「ソーシャルメディア」という言葉は、いつ終わるかも分からない1サービスより、はるかに大きな概念ではないのだろうか。

そしてオープン、クローズドという点で言うと、ここ
 Twitter = OPEN
 Facebook = CLOSED

とあるけども、これはサービスの使い方の問題であって、オープンかクローズドかというのは「匿名か実名か」を基準に考えるべきだろう(少なくとも、Googleの検索にかかるかどうか、ではないはずだ)。
アメリカでは常識 (`・ω・´)キリッ なんてそんなことはない。

あたかも世界のすべてがソーシャルメディアで埋め尽くされる、というような人もいるけど、それも非現実的だ。どんなにソーシャルメディアが普及しても、マスメディアがなくなることはありえない。それは情報の信用度の問題もあるし、誰もが情報の一次発信を進んでやるとは考えにくい。

リアルとバーチャルを必要以上に分ける必要はないし「リアルは消滅する」なんてオカルトチックな言説もちょっと。。リアルがなくなるというのは人間関係がなくなることで、映画のような電脳世界にでも住まない限りそんな日は来ない。

余談ながら、ソーシャルメディアがより普遍的になれば「自分にとって有用な情報が意識せずとも入ってくる」という世界がやってくるだろう。それこそが、ノーベル賞を獲った鈴木章先生もおっしゃってた「セレンディピティ」に溢れた世界で、やれソーシャルだなんだと意識しなくていい日が来ると思う。

とりあえず、まだ実態が定まらないものに対して「100%間違っている」と断言するのはどうかと思うし、「そもそも社会とは何だ!」ということを、目くじらたてて議論しているようにしか見えなかったのだけども。

はてぶiPad記事に見る、ソーシャルとマスの境目

はてなブックマークで、とある記事が多くのブックマークを集めていた。

はてな近藤淳也が日本経済新聞社に潜入! 話題の日本経済新聞 電子版について体験してみた

「何でこんな提灯記事が?(失礼)」と思ったのだが、どうやらブクマするとiPadがもらえるとのこと。
なるほどな、と思ったのだが、これはソーシャルブックマーク(SBM)の根底が崩れることになりかねないのでは、と感じたのでエントリにしてみた。

SBMの利点の一つは、自分で記事を探す手間を省けることだ。多くのブックマークを集めている記事は何かしら話題になっていたり、大勢の人が読む価値があると判断している可能性が高い。
実際、そうでない使い方(一歩離れたところから意見を言ったり、disりあったりすること)がメインストリームになりつつあるけどそれはおいといて、本来はそのような理想像があるはずだ。

はてなブックマークは、日本で最大のSBMだろう。
初期の頃から比べれば、利用者も大分増えてきたように思う。

はてなが一企業である以上、このように自社サービスをマネタイズすることは、何ら否定されるべきことではない。
特にお金儲けが下手といわれるはてなが、このようなことを行ったのはある一面では評価できるとおもう。

しかし、すべてがこんな記事で溢れかえってしまったらどうなのだろう。
はてなのホットエントリが「ブックマークしてくれれば○○円あげます!」というキャンペーンページで埋め尽くされたら、はてブはその価値を失ってしまうのではなかろうか。
皮肉にも、はてブが有名になればなるほど、メディアとしての価値を高めれば高めるほど、そのような使い方をされる可能性が高まる。

それはある種のスパム行為とも言えるけど、はてな自身が行っている以上、他社が同様のことをするのを責めることはできないはずだ。

そうなると、ユーザとしては「もうはてブはダメだね。やっぱりライブドアクリップだよね」なんてことにならないだろうか。
結局、運営母体として力を持っている(SBMだけで食っていかなくてもいい)ような企業に、おいしいところを持っていかれる危険も孕んでいそうだ。

ウェブサービスのマネタイズは試行錯誤の段階だと思うが、特にソーシャル系のサービスでは、非常に神経質にやるべきなのでは、と思った春の日。

孫さんのRTとチェーンメールとソーシャルメディア

先日、ソフトバンクの孫さんがTwitter上でRTした発言。

https://twitter.com/whatwashappened/status/9181337894

最初、「これって、チェーンメールでは…… 孫さんやっちゃったかな」と思ったのだが(リンク先に新聞記事があるので、ガセネタではないらしい)、よく考えてみるとTwitterのRT自体がチェーンメール(チェーンつぶやき?)的要素がある。
Twitterの登場で、その概念自体も変わってくるのかもしれない、と思い今一度考えてみた。

まずRTとは、Twitter上で気に入った発言を、他の人に見せるために行う行為で「ReTweet」の略である。当初はユーザの中から自然発生的にはじまったものだが、今では公式にサポートされるようになった。

そして、チェーンメールとは何か。
Wikipediaこちらのサイトによると、人それぞれ解釈はあるものの、自ら「知人に転送して」という情報は、すべてチェーンメールとなる。
たしかにTwitterのRTに近い。

数日前、こんなことも起こった。
「恋人捜して」 ツイッターの捜索願で騒動 警察は困惑

ここに出てくる登場人物たちは、みな善人だ。全員が行方不明の彼を心配し、行動を起こした。
実際、富士の樹海(!)で見つかったそうで、本当に深刻な状況だったのだろう。

しかし結果的には、警察の通常業務をさまたげてしまうという迷惑行為に発展してしまった。
そしてこれこそが、チェーンメールの弊害である。

「あえて言うなら、誰が一番悪いでしょう?」
となったら、直接の原因を作った「電話をかけた人」になるかもしれない。
しかし、必死で知人を探そうとした当人やTwitterにRTを投げた人に影響されたとも言える。
この程度でパンクする警察の電話回線、という意見もひょっとしたらあるかもしれない。

「Twitterでつぶやくのと、実際に電話するのでは大違い」という意見もあろうが、どんなにネットが一般的になろうとも、猪突猛進で突き進んじゃう人は絶対いるし、この問答を散々突き詰めて、強制力はないもののルール化したのが、RFCの「ネチケット」だったはずだ。

私は、ソーシャルメディアが新しい「メディア」のひとつになる日が来ると思う。まだ相当遠いけど。

そして、その形態は日々進化している。
例えば、1:1だったメールに比べ、1:数十万にもなりうるTwitterではその分散効果はまさにねずみ算式だ。それこそがTwitterのもつ力でもある。
しかし裏を返せば、何も考えず気軽にRTすればするほど、その情報の信頼性・有用性は薄れていき、Twitter、ひいてはソーシャルメディア全体がただの「ウサン臭いもの」に成り下がる。

この孫さんのRTにより、チェーンつぶやきはある程度市民権を得るだろう。「何で悪いの?」という人がたくさん出てくると思う。それもそうだ。インターネットのプロ中のプロがやっているんだから。

しかしソーシャルメディアの力を高めるのであれば、やはり使う人たちの「自分たちは既にメディアの発信側になっている」という自覚が必要だと思う。Twitterの力を信じるならなおさらだ。

結論:15年前のネチケットは、やっぱ正しいんじゃね?

「○○ちゃんが病気で苦しんでます!RTしてください!」
「Twitterで救える命がある!RTをお願いします!」
このようなネタを新聞に載せようとしたら、記者はまず、その真偽を確かめるために取材をするだろう。

それができない我々一般人はどうすべきか。
インターネットは誰もが接触可能な空間だ。そこに情報を吐き出すというのはどういう行為かを、今一度見直す方がよさそうに思える。

ちなみに、私はリンク先の少女とは知り合いではないので寄付はしませんが、もちろんこの活動自体を否定するものではありません。

「恋人捜して」 ツイッターの捜索願で騒動 警察は困惑