一人暮らしは大事だけど、長すぎるとダメ人間になる説

マツコ・デラックスさんが、女性も一人暮らしをしないといけないと言っていたらしい。
http://news.livedoor.com/article/detail/7683054/

一人暮らしの平均年数というものは分からないが、私のそれは相応に短くない期間に及んでおり、かつ現在進行形である。

人類の長い歴史を鑑みるに、個人が一人でも快適に暮らせるよう住宅や社会が適応され、それが社会的にも認められるようになり、あまつさえ件のマツコ・デラックスさんの発言のようにある程度のステータスさえ持つようになったのは、世界的に見てもここ数十年のことだろう。

経済的にもインフラ的にも、「一人で暮らす」ということが困難だった時代に比べれば、その変化は正当であるし、好ましいとも思うが、しかし最近個人的には、一人暮らしは長すぎると良くないと考えるようになった。


結論から言ってしまうと、それは一人暮らしというものが実に快適すぎるからである。

一人暮らしを始めると、今までの日常の細かなことが実はストレスになっていたことに気づく。
たとえば風呂やトイレに入りたくても誰かが使っているとか、いつも誰かが散らかすとか、自分が買ってきたはずのプリンがなくなってるとか、そういったことはすごく小さいけども、実はちょっとしたストレスの原因になっていたのだ。

一人で暮らしていると、当然のごとくそれらすべては起こりえない。
トイレには誰も入っていないし、自分が買ってきたもの以外は冷蔵庫に入っていない。何をしても、いつ帰ってきても、完全なる自由である。この自由は明らかに素晴らしく、私も一人暮らしを始めた当初は楽しくて仕方がなかった。

そして一人暮らしの部屋は、自然と最適化されていく。モノの配置、買い物のサイクル、衛生状態、その他諸々が、自分が最も心地よい状態に向かっていくのだ。

一人暮らしが長い人間は、これが侵されることを非常に嫌う傾向がある(私も含めて)。たとえ傍目にはそうは見えない乱雑な部屋だとしても、日々暮らしていくうちに最適化された空間は、心が休まるものだ。

経済的に自立し、いわゆる家事炊事などの身の回りのことも一通りでき、社会的にはステータスとも認識される一人暮らしだが、しかし寛容さの醸成という意味では、必ずしも是であるとは言えない。そして、それが長くなればなるほど、その性質は凝り固まってしまうように思う。

やはり人間は誰か他人と暮らさないと、少なくとも忍耐強さは失われるように思う。

「不便」を我慢できるようにならないと日本は変わらない

選挙は予想通り自公の大勝に終わったわけだが、これで消費税10%は確実となり、高齢者の医療費や社会保障費を国民全員で負担していく構図が、今後数年レベルでは確定的になったと言える。

現在の日本の経済状態にとって最も良い政策が消費増税なのかは論が別れるところだが、どこかからお金を捻出しないとどうにも立ち行かなくなることは間違いない。このままだと、高齢者の医療費を払えなくなって病気が治せない人が出てくるし、道路がぼろぼろになって通れなくなっても、直すお金がなくなってしまう。

しかし、多分それを我慢できるようにならないと、日本は変わらないんじゃないかと思う。

先日、ドイツが単年で国の借金をゼロにしたという驚異的なニュースがあった。現在社会において、Debtをゼロにして国を運営するなんてことが、ドイツクラスの国家でできるとはとてつもない。
しかし、いいことばかりではない。ドイツ国内では、道路の舗装がされていなかったり、渡っては危険な橋などもそのまま放置されているらしい。

日本でこれは難しいだろう。どこかの公共施設に不備があり、例えば公園の遊具が壊れて子供が怪我をしたとなれば、マスコミ、地域、そして民意はすぐさま怒りの声を上げるだろう。政府は何をしてるんだと。
もし「日本にはそんな余裕がない。お金がないので直せないんです」と返されたら、それを飲み込める人は多くない。

しかし、やがてそうなることはもう間違いない。日本国内はこれからどんどん現金がなくなっていく。今回の選挙で、国民は再び収入よりも支出の多い生活を選択したのだから。


産業を発展させる、外貨を稼ぐなど、日本を立て直すための方法はいろいろあるだろう。正解はわからないけども。
しかし今最も大事なことは、国民全体が「もう日本にはお金がない」ということを認識し、多少の不便があっても我慢できるようになることではないかと思う。

日本人は、あと50年位は同じ程度の生活レベルを維持できるかもしれない。しかし、徐々に日本人がアジアに出稼ぎに出始めるようになる。今と逆だ。
日本の物価はおそらくもう当分上がらない。その間に、諸外国がどんどん追いつき、すぐに同じ程度になるだろう。

そういった未来は今はなかなか信じがたいけど、間違いなく来る。そして大方の人はこう思うんだろう。「まぁ仕方ないか」と。

生きるために生きる、状態

誰しも、好きなことをやって生きたいと願うだろう。
好きなことを仕事にしたり、誰とも交わらずに自給自足で生きたり、何もせずにただひたすら寝ていたいという人もいるかもしれない。

でも、中々そういうわけにはいかない。
多くの人は、生活の糧を得るために働かなければならないし、それは必ずしも好きなことではない。

毎日満員電車に揺られて、ランチを食べて、たまにお酒を飲んで、週に2日休んで。
季節や年月の移ろい、周囲や自分の変化、そして変わらないこと。

やりたいことをやれるわけでもなく、楽しみや喜びがあるわけでもなく、ただ毎日が過ぎ去っていく。


それは、ただ「生きるために生きている」という状態かもしれない。

そしてその状態とは、非常につらいものだ。
愛する者も、守るべき者も、目標もないのに、自分は何のために生きているのか。

大事なものを得られた人や、経済的に成功した人に、陰で笑われていると感じることもある。それに比べて、自分の人生は何て惨めなのだろうと。
老いて、誰にも鑑みられずに孤独の中に死んで、「あぁはなりたくない」と思われることもあるかもしれない。


そうやって生きてきた人生の最期に、人は、自分の人生は生き抜いた価値があったと思えるものだろうか。それは幸福なものだったと、生きてきた意味は確かにそこにあったと思えるだろうか。

たとえばそうでなかったとしたら、その一生には価値がないのだろうか。自分の人生はなんて無価値だったのだろうと、なぜここまで生きてきたのかその意味が結局わからなかったと絶望して死ぬのだろうか。

自分の命はクソみたいだったと、泣きながら死ぬのだろうか。


それでも、果たして生きていく必要はあるのか。
どうしたって逃げずに立ち向かい、何があろうが困難を乗り越えて進んでいかなければならないのか。

自分を生かしているものは、周囲を悲しませないためだけで、例えば明日、自分がふといなくなってしまっても悲しんでくれる人がもういないのだったら、そのまま消え入ってしまいたいと思うことがあっても、その感情を責められるだろうか。


答えはわからないし、正解はないけど、まぁそれでも、人生はクソみたいだと思うよりは素晴らしいものだと思えたらいいなとは思う。
まぁよかったかと、ある程度のゴールには達しられたと、健やかに幕を引ける日がいつかくるのだと信じたい。

生きていたいと思う気持ちは、防衛本能以外にもっと具体的に何かあるはずなんだろう。きっと。

「日本人サラリーマンvs.アメリカ営業マン」は「礼儀の定義」の違い

「日本人サラリーマンvs.アメリカ営業マン」という動画が話題になっています。日米ともにとてもよく描写されており、お腹を抱えるほど笑ってしまいました。

しかし、この動画を観て、

アメリカ人は雑→日本人は丁寧→なのに生産性は変わらない→日本人ももっと雑に仕事したっていいじゃないか

という結論に達するのは間違いです。

「アメリカ人ってあんなに雑なのか…」 日米の働き方を比べた動画に「驚き呆れた」の声

なぜなら、日本人とアメリカ人の「礼儀の定義」が異なるからです。
日本人の方がより丁寧でアメリカ人が雑に見えるのは、他人とコミュニケーションをする際のマナーが違う、という理由にほかなりません。


我々の感覚だと、「より丁寧に、相手を敬うこと」が礼儀です。特にビジネスの取引先となれば尚のことでしょう。
しかしアメリカの人にとっては、「より親しい関係を築くこと」こそが礼儀であり、いかに早く友人に、憎まれ口を叩いたり、シニカルなジョークを交わしあう仲になるか、ということこそがマナーなのです。
逆に、日本人のように相手との距離を取ることは「失礼」にあたったりします。

言葉を替えれば、日本人にとって「謙譲」が最上だとすると、アメリカ人にとっては「信頼」こそが最上なのでしょう。
相手を皮肉ったり、包み隠さず本音を言い合うことは、そこそこ頑丈な信頼関係がないと成り立ちませんし、それを築くのは結構大変です。

なので、アメリカ流の方が効率的で変えるべきと言うなら、年長者や他人を敬う、という儒教的な日本の文化そのものを根底から変える必要があり、それは多分無理です。


ちなみに、アメリカ人にとっての親しみの証は「自宅に招く」ことだったりするので、すぐに招待したがります。ただこれは、日本人にとっての「今度飲み行きましょう」と同じで、結構な確率で社交辞令が含まれているため、本当に行くかどうかの判断は難しいです。

それにこれは割とアメリカ特有で、同じ英語圏でもイギリスの人なんかはそうでもないです。一昔前は、「イギリス紳士は、たとえ同じ空間にいても第三者に紹介されるまで絶対に話しかけない」と言われていました。相手が考え事をしているかもしれない、話したくないかもしれない、というプライバシーを尊重するため、というのがその理由です。
ただ、紹介されると湯水のように話し続けますが。


また、「労働生産性ではアメリカ人の方が高い」という意見もありますが、失業率も加味すればそれほど違いはないでしょう。アメリカ流の方がよりシビアで、ビジネスで生き抜くことが難しいということかもしれませんが。

結論としては、日本の人は今のやり方を変えられないし、その必要もないと思います。
ただ、この動画の「典型的なアメリカ人」のように、気さくで壁を作らず、話しかけることをためらわず、すぐに信頼関係を築ける人のことを、日本では「コミュ力が高い」と言ったりするので、身に付けられれば得をすることも多いと思います。

はてなは上場を諦めたのか

はてなが上場の準備をしていることは、既に公の事実である。

はてなが上場目指しCFOを公募、年収最大1200万円


私は、投資対象としても、単純な1ファンとしても、今か今かと待ち構えているのだが、いつになっても上場しない。

そんな時に現れた、近藤社長退任のニュース。なんでも、会長職に退くとのこと。

株式会社はてなの代表取締役会長に就任いたしました



果たして、はてなは上場を諦めたのだろうか。

邪推ながら、はてなの上場への障壁があるとするなら、おそらく収益面の弱さだろう。
はてなはソーシャルゲームもやっていないし、爆発的に儲かるビジネスを持っていない。

このまま上場しても、ニッチなユーザー層に向けたサービスの継続と、任天堂などの大手クライアントの下請け業務をこなしていく企業になるだろう。それは何も悪くないし、それこそがはてなの魅力である。いわゆる「はてなファン(村民)」が長期保有目的で持ち続ける、そんな株になるのではないか。


では、近藤社長(会長)がビジネス面に弱かったための交代だろうか。
しかし、だとすると、主に技術面を見ていた栗栖氏をトップに据えた理由がわからない。

思い切って、外部からファイナンスに強い人材をトップに据えるのならインパクトも理由付けもあるが、(実際の能力は分からないけども)少なくとも近藤さんより知名度で劣る同じ「技術者」に引き渡す、というのはどういう腹か。


どちらにしろ、創業社長が上場前に退くというのは、IPOで高値をつけるという意味でも、あまり好印象ではない。
さまざまなことを考慮すると、はてなはもう上場を諦めた、少なくとも近藤さんはそれを半ば放棄したのではないか、と邪推してしまう。


そもそも上場はすればいいってものでもないし、はてなのような特異な会社なら、むしろしない方がその魅力を保てるのかもしれないが。


相変わらず、社名の通りよくわからない会社である。