「不便」を我慢できるようにならないと日本は変わらない

選挙は予想通り自公の大勝に終わったわけだが、これで消費税10%は確実となり、高齢者の医療費や社会保障費を国民全員で負担していく構図が、今後数年レベルでは確定的になったと言える。

現在の日本の経済状態にとって最も良い政策が消費増税なのかは論が別れるところだが、どこかからお金を捻出しないとどうにも立ち行かなくなることは間違いない。このままだと、高齢者の医療費を払えなくなって病気が治せない人が出てくるし、道路がぼろぼろになって通れなくなっても、直すお金がなくなってしまう。

しかし、多分それを我慢できるようにならないと、日本は変わらないんじゃないかと思う。

先日、ドイツが単年で国の借金をゼロにしたという驚異的なニュースがあった。現在社会において、Debtをゼロにして国を運営するなんてことが、ドイツクラスの国家でできるとはとてつもない。
しかし、いいことばかりではない。ドイツ国内では、道路の舗装がされていなかったり、渡っては危険な橋などもそのまま放置されているらしい。

日本でこれは難しいだろう。どこかの公共施設に不備があり、例えば公園の遊具が壊れて子供が怪我をしたとなれば、マスコミ、地域、そして民意はすぐさま怒りの声を上げるだろう。政府は何をしてるんだと。
もし「日本にはそんな余裕がない。お金がないので直せないんです」と返されたら、それを飲み込める人は多くない。

しかし、やがてそうなることはもう間違いない。日本国内はこれからどんどん現金がなくなっていく。今回の選挙で、国民は再び収入よりも支出の多い生活を選択したのだから。

産業を発展させる、外貨を稼ぐなど、日本を立て直すための方法はいろいろあるだろう。正解はわからないけども。
しかし今最も大事なことは、国民全体が「もう日本にはお金がない」ということを認識し、多少の不便があっても我慢できるようになることではないかと思う。

日本人は、あと50年位は同じ程度の生活レベルを維持できるかもしれない。しかし、徐々に日本人がアジアに出稼ぎに出始めるようになる。今と逆だ。
日本の物価はおそらくもう当分上がらない。その間に、諸外国がどんどん追いつき、すぐに同じ程度になるだろう。

そういった未来は今はなかなか信じがたいけど、間違いなく来る。そして大方の人はこう思うんだろう。「まぁ仕方ないか」と。

所属欲求を満たす最適な範囲とはどこなのか問題

ソチオリンピックが終わろうとしている。

特に日本では、浅田真央選手とキム・ヨナ選手の対決に注目が集まった。
結果はどうあれ、二人とも研ぎ澄まされたスペシャリストの技を見せてくれたのではないだろうか。

言うまでもなく、オリンピックは国別の争いだ。
特に複雑な事情でもない限り、世界中の人が自国の選手を応援するだろうし、それに疑問を持つこともない。

例えばこれが「大陸対抗」とか、「母国語対抗」とかだったらとか考えない。多分盛り上がらないし。

そして、イベントとしてのオリンピックの成功を見るにつけ、現代における最も快適な所属範囲は「国」なのかなと思う。

人間には「所属欲求」があり、どんなに孤独を好む人でも、社会の成員としてどこかの集団に所属していたいと望むものだという。
そしてこの所属欲求というのは、どこまでも小さくなれるものだ。

例えば地方出身者から見ると「東京出身」というだけで、これはもう紛うことなき「都会人」だろう。

しかしその東京出身者からすると、23区以外は注釈をつけないといけない雰囲気があり、23区でも東と西では大分温度差があるし、同じ世田谷区成城でも、やれ何丁目の方が格式があるだの、それこそきりがない。

「私は世田谷区成城に生まれ育ったことを誇りに思う!」という人がいたって別に問題はなさそうだが、最初の「国」に比べるとずいぶん小さい人間に見える。

しかし上述の通り、「私は日本国に生まれ育ったことを……」という人は小さいとは言われない。

逆に、人間はどこまで所属意識を拡大できるだろうか。

例えば明日、強力な宇宙人が攻めてきて、全世界の武力を結集して戦わなければいけないことになったら、多分みんな「俺達地球人!」という連帯感を持つだろう。そんなときに、ネトウヨだの何だの言ってられない。

自分が今どこに軸をおいて、どの範囲に所属する人間として発言しているかを意識すること。そして、その枠組にとらわれる必要が果たしてあるのかどうかは、常に考えておいて損はない気がする。

結論としては、ガンダムってやっぱすげーよな、ってことで(違

軽自動車のナンバープレートを白に変えれば、大きな経済効果があるのでは

昨今、優遇見直し論が活発な軽自動車。
それとは直接関係ないのだけど、軽自動車のナンバープレートの黄色、あれは意味があるのだろうか。

それまで白だった軽自動車のナンバープレートが黄色に変わったのは、1975年の排ガス規制法がきっかけだ。
環境保護が叫ばれ始めた社会情勢の中、軽自動車にも厳格な基準を設けるため、550cc(当時)の規制がかけられた。

その際、ナンバーが黄色になったのは、高速道路での普通自動車との違いがあったからだ。
・制限速度が異なっていた(80km)ため、視認による取り締まりを容易にするため
・料金が異なるため、料金所の係員がすぐ分かるように

しかし、制限速度の違いはもう撤廃されたし、料金もETCで支払うのが当たり前になっている。
それ以外に、道路上で普通自動車と軽自動車を見分けなければならないケースはあるだろうか。

税金の管理上、普通自動車と区別する必要があることは認めるが、それはどこかのデータベースでやればいいことで、普通自動車と軽自動車の違いを、公衆の面前に晒す必要はもはやないのではなかろうか。

私は車に疎いので、正直見た目だけで軽自動車と分からない車もある。
ナンバープレートが黄色だから「あぁ、これも軽なんだ」というのが結構ある。

日本人の「見た目を気にする気質」はバカにできないものがあって、黄色を白に変えるだけで、結構な経済効果があるのではとずっと思っている。

黄色ナンバーを気にして、軽自動車の購入を思いとどまっている人は相当数いるはず。
何か意味あるんでしょうかね。

向上心がない人の存在を認めて暮らすべき理由

ユニクロ、「世界同一賃金」導入へ 優秀な人材確保狙う

日本には最低賃金制度があるため、一定以下の給与に下がることはないだろうし、グローバル化を見据えれば納得できる施策である。
そもそも、一企業の賃金形態に難癖をつけることはできないし、それ自体には何も思うところはない。

しかし、いただけないのは以下の発言だ。

「年収100万円も仕方ない」ユニクロ柳井会長に聞く

「年収100万円」は極端な例えだろうが、発言の要旨をまとめてしまえば、

「大したこともしていないのに、先進国に住んでいるというだけで安穏に暮らしている人は、これからどんどん貧しくなるよ」

ということだ。

日本は今後、柳井さんの言うように、ますます貧富の差が広がっていくだろう。
柳井さんはその原因をグローバル化に依拠しようとしている。富が世界規模で平準化されることで、頑張らないと後進国に住む人のようにどんどん貧しくなっていくよ、と。

交通網やインターネットがこれだけ発展した社会では、グローバル化は今までにないスピードで進んでいくだろう。
これは止めようがないし、止める必要もないけど、柳井さんクラスの人が「オレはそれを加速させる。あとは知ったこっちゃない」というのは、なかなかどうして過激すぎる。

個人的にはTPPにも概ね賛成だし、自由競争がないと経済は発展していかないと考えているけども、それはかなり長期的な、いわば自分が死んだ後の何百年も先を見据えたマクロな視点であって、急激にそれをやろうとすると社会に大きなひずみが生まれてしまう。

考えるまでもなく、1億円と100万円に別れたら、圧倒的に後者の数が多くなるはずだ。
一部の金持ちと、大多数の貧困層。

柳井さんは「頑張れば大丈夫だ」と言うが、世の中の大多数の人は向上心がない。これは認めなければならない。
食うに困らない程度に働き、あとは酒を飲んでグウタラしたいという、どうしたって頑張れない人が大多数なのである。

それを認めた上で、先人たちはこの社会を築いてきたのだ。
誰かが富を独占すれば、社会の基盤が崩れて、犯罪も増えるし戦争や内乱も起こる。
そうならないために、権力者や経済界が必死になって民衆を治めて、全員がある程度納得できる程度の富を得られる社会を作って、国が平和に回っていくように努力してきた結果が今の日本であり、一定以上の先進国の姿だろう。

それには、ある程度国の利益もやはり守っていかなければならない。
現代社会はまだまだ「国」がすべての基盤であり、しばらくは続くだろう。このベースが「企業」となる日もいつか来るかもしれないが、少なくとも今後100年で訪れるとは思えない。

そういったことを、柳井さんとほどの人が分かっていないわけがない。
だからこそこの発言は「(給料が安いのは)お前が頑張らないせいだ」という言い訳を伝家の宝刀的に自社社員に使いたいだけなのでは、と穿ってしまうのだ。

優秀な人は国籍を問わず活躍すべき、というのはまぶしすぎるほどの正論だけれども、だから貧富の差はどんどん広がっていい、というのはちょっと急進的すぎる。

日々を安寧に過ごせればそれ以上のことは望まない、しかしそれが崩れた時、大多数を占める一般大衆がどうなるか。
認めたくはないかもしれないけど、それは歴史が証明してきたことだし、いかにそれを抑えるのかが近代国家の常識だろうと思う。

全知全能のトップを求めるのはもうやめよう

菅首相が辞任し、野田新体制が発足することになった。
すぐに支持率の調査が行われ、ある程度の期待が集まることだろう。

しかし野田さんが神のような名宰相でない限り、その支持率はすぐに右肩下がりになるだろうと思う。

大震災で弱体化した今の日本には、解決すべき問題が山ほどある。
復興のためには増税もしなければならないだろうし、例えば労働人口の減少を補うためには移民だって受け入れる必要があるかもしれない。

でも多くの人、そしてマスコミはそれに対して条件反射的に「増税反対」「売国政権」と叫ぶことだろう。

そしてこれも毎度のことだが、政権が交代する頃にようやく、まるで惜別の念を送るかのように「ボロクソに言われてたけど、まぁこれだけのことをした人だったよね」という肯定的な評価が入る。
http://jp.wsj.com/Japan/node_295384

どうして毎度毎度こうなるのか考えてみた。
自分なりの結論は、根底に「トップが変わるとすべてが好転する」という「幻想」があるのではというものだった。

この5年で6人もの首相が現れては消えた。

日本では、国民が直接トップを選べない。
自分たちが選んだ人(≠政党)であれば、多少嫌な部分があっても我慢するのだろう。例えばアメリカなら、4年は絶対に変わらない。嫌で嫌でしょうがないことがあっても、すぐには変わりようがないのだから、じゃあ良い方向に持って行くには自分たちに何が出来るのか、という方向に思考が転換するのだろう。

日本ではそれができないから、皆堪え性がなくなり、次から次へトップをすげ替えることで事態が好転すると思っている、またはそう思いたいのではないだろうか。

「お前なんてダメだ、次々!」
トップを次々に変えられるこの状況って、ひょっとして麻薬のような中毒性があるのかも。。

麻生太郎という首相がいた。
カップラーメンの値段や漢字の読み方という、国を動かすという職種にとって本当にどうでもいい瑣末なことで糾弾された首相だった。彼が行ったこと、菅総理と同じように辞任を迫られながらもギリギリまで戦ったその成果は、今となっては評価する向きのほうが多い。

トップが変われば何か劇的なことが起こるんじゃないか、救世主のようなリーダーが現れて日本を変えてくれるのではないか。
そんなことはもう幻想だと割りきって、今自分たちに何が出来るのかを考えるべきではないかな。