可視化されたのはバカではなく、義憤に燃えた人たちではないか

「バカが可視化される時代」とどう向き合うか
「うちら」の世界

この二つの記事の「バカをやっちゃう人」については、ほぼ同意見だ。彼らは昔から一定数以上いたし、これからもいつづける。
視野範囲は狭く、ネットに顔写真を載せることの本質をきちんと理解していない。リアルで干渉されないのに、なぜネットではこんなに袋叩きに遭うのか、その感覚もよく分からないだろう。

そういう意味で「バカが可視化した」というのは確かにその通りだけど、おそらく、もっと明確に我々の目の前に現れた、今まであまり見えなかった人種というのは、「義憤に燃えた匿名の人たち」ではないだろうか。

夏の暑い日、客がいないコンビニで、店員が悪ふざけでアイスのケースに入っていたところを偶然目撃してしまった。
見てみないフリをする人もいれば、不快感で店を飛び出す人もいるだろう。中には、バカだなぁ~、と思わず笑ってしまう人もいるのではなかろうか。

しかし、その場で激怒して猛抗議し本社に電話までかける人は、感覚的にはそれほど多くないように思う。
なぜなら、その場を抑えた写真でも撮っていない限り証拠もなく、味方も皆無だからだ。店員が否定すればそれで終わってしまう。振り上げた拳をそっと振り下ろすのは、ちょっとした敗北感すらある。

その点でインターネットという装置は「義憤に燃える匿名者」にとって大変有利なものだ。

糾弾するための紛れもない証拠がある
怒れる自分は大勢側の人間である
悪いのは絶対的に相手であり自分には一分の非もない
名前も顔も晒すこともなく思う存分相手を攻撃できる

という好条件がそろっているのだから。

「悪いやつを成敗したい、批判したい、正義を振りかざしたい」という欲望、間違っていることを糾弾したいという欲求は誰もが持つだろう。そして、一部の人はその欲求レベルがとても強く、犯した過ちの大小に関わらず、相手を可能な限り不幸のどん底に陥れたいという欲望を持っている。これは、分かっているのにバカなことをやってしまう人たちと同じく、一定数以上存在するのだ。残念ながら。

私は、ネットはすべての現実社会を拡大する機能がついた装置だと思う。だから「バカだけが目立った」のではなくて、今までもそういった「糾弾する世間」というのはあったのだけど、それが非常にうまく機能するようになった、ということではないだろうか。

だから「バカやっちゃう人たち」や子供には、そのような「世間」の存在を説き、「何だかわからないけど、ネットでやらかすととにかく恐ろしいことになる(でも良いことをすればその逆にもなるよ)」と教えておく必要があるのかもしれない。

会社や学校をクビになり、下手したら自殺まで追い込んでもなお、嬉々とした快感を覚える人がいる。これはもう仕方ないのだ。躊躇もなく人を殺す人がいるのと同様、世の中にはそういう類の人がいる。残念ながら。

では、誰もがこういった発信力を身につけた今後の社会は、一体どうなるだろう。あらゆることが規制され、ガチガチの生きにくい社会が出来上がるだろうか。

私は、結論からすると「慣れる」だろうと思う。
人間の「慣れ」耐性はなかなか恐ろしいものがある。飛行機だってネットだって、少し前ならとても信じられない代物なのに、我々はもうそれがなくては生活できない。

今までは「近所のバカ」だった人が、「ネットのバカ、世界に公開したバカ(褒め言葉)」になるだけで、なくなることはない。社会的な糾弾もそれなりに受けることだろう。しかしそれが当たり前になると、世間はあっという間に飽きて「またか。まぁそういう人もいるよね」程度の状況になるのではなかろうか。
だって、コンビニの冷蔵庫に入るくらい、別に大したことじゃないでしょ?