ソーシャルメディアは「数の原理」に帰結する

「ソーシャルメディア」という言葉が登場して、もう何年になるだろうか。
未知なる萌芽を感じた人は多かったはずだし、今なおその理想を追い続けている人も大勢いる。
今エントリでは、その「ソーシャルメディア」および「ソーシャルグラフ」に対して、現在自分が考えていることを書こうと思う。

というのも、当初考えていたソーシャルメディアの理想型が、自分の中で徐々に変わってきつつあるからだ。


言葉の定義があまりに広すぎるが、ソーシャルメディアとは一言で言えば「従来のマス型ではない(身近な人の)口コミなどによって伝播する情報伝達の仕組み、または情報そのもの」と、私は解釈している。

そしてそのソーシャルメディアの考えのひとつに「ある特定の少数が発する情報より、大多数の人間が発するそれは正確性で上回る」というものがあると思う。
プロの凄腕ライター一人が絶賛するお店より、100人中100人がおいしいと言っている店のほうが優れているはず、という考え方だ。

しかし、少なくとも現時点ではこの原則がうまく機能していないことが多い。
真偽の分からない、適当に書いた情報、誰かを陥れるためだけに作られたもの… ネット上には残念ながらゴミも多い。
Amazonや価格.comで評判が高かったから購入したが、意外と不満が残ったという経験は結構あるはずだ。


そこで飛び出した概念が「友達フィルタ」及び「ソーシャルグラフ」である。
素性の知らない人ではなく知人が勧めているのであれば、おススメの信頼性も増すという考え方だ。

Facebookが導入し、広告を革命的に変えるといわれた「Social Ads」は、その副次物の代表格だ。
結局プライバシーの問題からすぐに中止の憂き目を見たが、改良すればソーシャルメディアの中心的な勢力として君臨するだろうと思う、がそれはまた別途。

しかしこの「友達フィルタ」を活用するためには、Web上に信用できる人間関係を保持する必要が出てくる。
リアルの知り合いを引きずり込むか、Web上でそれを構築するか。

それがtwitterやFacebook、friendfeed、またはmixiなのかはどうでもいいのだが、いわゆる「普通の人」にとってこれは中々障壁が高いと思う。それができるのはごく一部で、その他大勢はそんなにどっぷりWebに浸かっていられない。

ある商品に対する友達の評価を聞きたければ直接電話することだってできるし、会ってお茶する間に聞くこともできる。
「僕はもうテレビなんて見ない」という人がいるが、それと同じように「ネットなんてたまにしかやらない」という人がほとんどだということを忘れてはいけない。


ソーシャルグラフの考え方は非常に優れたものだが、その恩恵を受けるためには相応の労力がどうしても必要になる。

Web上でより詳しく調べる人、Web上に友達が多い人、Webを普段から頻繁に利用する人……
その格差が広がれば広がるほど、ソーシャルグラフが織りなすソーシャルメディアは、一部の人のための一部のものでしかなくなっていく。

となると、それは結局インターネットのヘビーユーザのみが使用する特異な世界の域を出ない。広義の「ソーシャル」ではなく、少なくとも「メディア」でも何でもない。


という考えを経て、私は「ソーシャルグラフ」を利用したソーシャルメディアは、少なくとも今後しばらくは主流になりえないと結論付けた。
すべての人がWeb上でソーシャルグラフを作っていける、という考え方に私は否定的である。


ではどうなるのか。
結局、物量がすべてを駆逐するのではないかと考える。
ここでエントリの最初に戻るわけだが「ある特定の少数が発する情報より、大多数の人間が発するそれは情報の正確性を塗り替える」ということに帰結するように思う。

ソーシャルメディアがその機能を果たすためには、大多数の人がその輪の中に入ることが大前提となる。
その上では、ソーシャルグラフなどの「余計な」障壁はなるべく取り除き、気軽に参加・離脱できるメディアの有体として存在しなければならない。それこそ、テレビをつけるほど簡単に。
おいしいお店を知りたいだけなのに「まずお前の友達を10人連れて来い」というのはあまりにも一見さんお断りすぎだろうと。

そうなってはじめて、テレビ、雑誌、ラジオ、そしてWebの中から、利用者はもっとも都合のよい媒体を選んでいくはずだ。

たとえばレピュテーションのシステムでも、古くから行われているレビュー自体に「参考になった/ならない」をつけるなど、その正確性を上げていく試みはもっと色々あっていい。
Amazonの「10人中○人」では信頼性が低いかもしれないが、Yahoo! ニュースのコメント欄のように何万もの評価がつくことにより、情報はより平準化されていくはずだ。
ソーシャルメディアが生き残るためには、物量を多く取り込むことこそがまずすべきことなのではないか。

Web上にソーシャルグラフを構築することは難しくても、ソーシャルメディアをまだうまく使っていない人を取り込むことは可能だ。使いこなしていない人がほとんどのはずだから。


そんなことを思った2010年元旦。
今年もよろしくお願いいたします。

ブログをはじめたことで、自分の性格がよく分かった

ブログを開設してから、ちょうど一年経った。

果たしていつまで続くやら、という気持ちで始めてみたが、何とかここまで継続することができた。
明らかに更新頻度は下がっているけども(汗


私はおそらく極度の自意識過剰なので、ブログの存在を誰にも明かさなかった。
そうすることで、ようやく自分が本当に書きたいことが書けたように思う。

そうやって、自分が興味をもったことを好き勝手に書いたことで、自分の性格というか本性みたいなものがかなり分かった気がする。
これは非常に収穫だった。


今まで書いたもの見返し(たくないほど恥ずかしいものもあるけど)てみると、どうやら自分は物事を否定的に捉える性質があるようだ。
何か気になることがあったら「これは素晴らしい!」と讃えるよりも、「これはちょっと違うんじゃないか」と食ってかかる。
ブログというのは、日記ではなくメディアであるという意識がやや強いからかもしれないが、よく言えば批判精神、悪く言えばマイナス思考な考え方なのだろう。

ネット住民をして「品行方正で怒りっぽいネット住民」という揶揄があるが、まさか自分もそれに当てはまっていたとは。

ただ、個人的にはそういった面は捨てずに、でも意識して他の人の成果物や考え方のよい所を取り入れることができるようになりたい、と思う。


そして、いくつかの記事はおかげ様で自分が思っている以上の反響をもらうことができた。
その中で、少なからず「炎上」することもあった。

私は、自分は精神的にタフな人間であると思っていた。

しかしながら、やはり自分では真剣に考えていたことを面と向かって否定されるというのは、思っていた以上に精神的に堪えた。
議論を重ね、互いの立場を理解するところまで行き着けばいいし、ほとんどの人がそうなのだけど、中には最初から理解しようとする気持ちがないという人もいる。それは実生活とまるで同じだ。


なんやかんやグチグチ言っているものの、トータルするとブログを書いてみて良かったと思える。
私の経験の中では、自分というものをより深く認識できた、最も効果的なツールであった。


いつまでもつか分からないけど、飽きない程度に続けていきたいものだ。

見ろ、非モテがアリのようだ

タイトルは釣りです。


非モテSNS」というサイトが盛り上がっていると聞いて、試しに登録してみた感想。

「モテないもの同士が傷を舐めあうサイト」
「恋人ができたら即退会」
というキャッチフレーズを聞いていたので、さぞかし自虐的なネタが満載なのだろうと思っていたら、ちょっと違った。
むしろ正反対だった。

というのも、オフ会がかなり盛んだったからだ。
俗に「非モテ」と言われる人たちは、他人との交流が億劫だったり初対面の人が苦手だったりする(だからこそ非モテ)のかと思っていたから、結構意外だった。

コミュニティへの書き込みの多くがオフ会絡みで、非モテという言葉がなければ正に「リア充」のSNSにも見える。
ちょうど、mixiの初期のころを見ているようだ。


先日、「働きアリばかりを集めても怠けアリがでる」というニュースがあって、ユニクロの柳井さんも「できる人ばかりを集めても、その中で突出するのは2割」と『一勝九敗』で著していた。

これと同じで、どんなに消極的な「非モテ」を集めても、相対的に積極的な人が先頭を引っ張って、周りにそれについていく人がいて、というようなクラスタができあがっていくのかな、と思った次第。
リーダータイプでなかった人が、転職などを機に急に求心力を得た、というのもよくある話だ。
そうやって、世の中はうまく回っている部分もあるのだろうかな。


ただし、非モテでも何でもなくただお金を儲けるために乗り込んできた人がいるだけ、という可能性も否定できない。
オフ会でもイベントでも、主催者はそれはもう儲かる。これは間違いない。

それが必ずしも悪いことではないけど、中にはそういう人を食い物にするような、怪しげな団体みたいなのがあるので注意したい。

サイトの主催者自体がそのような意図で運営していないといいな、と思うけども。

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