コートジボワール戦の松木解説が、完全にファミコン版キャプ翼の件

今週から始まったサッカーW杯。

FIFA公式スポンサーのアクエリアスでは、「松木安太郎生解説」という企画をやっていた。
放送がNHKということもあり、松木さんの応援(≠解説)も聞けないだろうなぁと思っていたので、松木ファンの私としてはちょっと楽しみに見ていた。


かの名言「ゴールをずらせ」こそ出なかったものの、いつもの擬音語連発や、底なしのポジティブ応援(≠解説)が冴えていたのだが、途中から何だか様子がおかしくなってきた。



相手の19番……
ヤヤ・トゥーレのことか。
確かに、出場が不安視されていたけど、何も番号で呼ぶことないのに。
まぁ、興奮した松木さんらしいけど。



日本の5番……?
松木さん、長友の名前をど忘れか……?



顔を縫ったばかりって……
そんな細かい情報まで知ってるのに……



これは大久保が交代で入った時。


結局この「松木解説」では、本田圭佑選手以外すべて背番号で、一度も名前が出なかった。

松木さんの魅力は、素人が場末の酒場で観てるような解説だと言われるが、さすがに選手の名前を忘れているはずはない。
おそらくこれは、権利の都合で、コカ・コーラ社と正式に契約している、本田選手以外の名前を出せなかったことが原因だろう。

それに、明らかに予め用意していたようなツイートを1秒間隔でつぶやいていたりしたし、松木さん本人もいなかったんじゃないかな。


何はともあれ、残念ながら日本は逆転で負けてしまったけれど、ぜひ次のギリシャ、コロンビア戦に向けて切り替えて欲しいところ。



それにしても、どっかで見たことあるなぁと思っていたら、これでした。
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巨万の富を築ける4つの職業

「お金が欲しい、できればたくさん、あればあるだけ欲しい!」というのは、人として当然の欲望だろう。
しかし、「巨万の富」を得られる職業は、世の中にそれほど多くない気がする。

ここでいう「巨万」とは、数百~数千億、及び兆円の単位であり、例えば、医者、パイロット、歌手や俳優などは残念ながら含まれない。


1:事業家

経済的成功者の代表。
社会に新しい価値を提供することでその見返りを受ける、一般労働者の頂点に立つ人々。

ビル・ゲイツ:8兆円
コーク兄弟:8兆円(合算)
孫正義:2兆円



2:投資家

自己の資産を、主に「1」の事業家に託し、その価値を高めるプロ。資本主義社会の頂点に立つ存在であり、おそらくすべての職業の中で「誰かに頭を下げる」ことが最も少ない。

ウォーレン・バフェット:3兆円
ジョージ・ソロス:2兆円



3:プロスポーツ選手

誰もが一度は憧れるためライバルも多く、おそらく最も就くことが難しい職業。
ほとんどの選手が所属チームや団体に雇われる「雇用者」であり、そこから出るのはあくまで「給与」だが、彼らの莫大な収入は企業とのスポンサー契約によるものである。

ミハエル・シューマッハ:1,000億円
タイガー・ウッズ:800億円
ロジャー・フェデラー:700億円



4:ファッションデザイナー

最も意外なのがこの職業ではなかろうか。
しかし「ファッション」は、確かに世界共通の「インフラ」であり、商圏は無限に広がっている。
多くのブランドは人名が冠されるため、人物の知名度という意味では、他のどんな職業よりも高い。

ミウッチャ・プラダ:1.5兆円
ジョルジオ・アルマーニ:8,000億円
ラルフローレン:6,500億円


ただ、それらのブランドを扱う事業家の方が上に来ることが多いのは事実。

アマンシオ・オルテガ(ZARA):5兆円
ベルナール・アルノー(LVMH):3兆円
ステファン・パーション(H&M):2.6兆円
柳井正:2兆円



他に何かあるかなぁ、と考えていたら「マフィア(暴力団)」というのがあった。
こちらも相当儲けてはいるだろうな。。。

所属欲求を満たす最適な範囲とはどこなのか問題

ソチオリンピックが終わろうとしている。

特に日本では、浅田真央選手とキム・ヨナ選手の対決に注目が集まった。
結果はどうあれ、二人とも研ぎ澄まされたスペシャリストの技を見せてくれたのではないだろうか。


言うまでもなく、オリンピックは国別の争いだ。
特に複雑な事情でもない限り、世界中の人が自国の選手を応援するだろうし、それに疑問を持つこともない。

例えばこれが「大陸対抗」とか、「母国語対抗」とかだったらとか考えない。多分盛り上がらないし。


そして、イベントとしてのオリンピックの成功を見るにつけ、現代における最も快適な所属範囲は「国」なのかなと思う。



人間には「所属欲求」があり、どんなに孤独を好む人でも、社会の成員としてどこかの集団に所属していたいと望むものだという。
そしてこの所属欲求というのは、どこまでも小さくなれるものだ。

例えば地方出身者から見ると「東京出身」というだけで、これはもう紛うことなき「都会人」だろう。

しかしその東京出身者からすると、23区以外は注釈をつけないといけない雰囲気があり、23区でも東と西では大分温度差があるし、同じ世田谷区成城でも、やれ何丁目の方が格式があるだの、それこそきりがない。

「私は世田谷区成城に生まれ育ったことを誇りに思う!」という人がいたって別に問題はなさそうだが、最初の「国」に比べるとずいぶん小さい人間に見える。

しかし上述の通り、「私は日本国に生まれ育ったことを……」という人は小さいとは言われない。



逆に、人間はどこまで所属意識を拡大できるだろうか。

例えば明日、強力な宇宙人が攻めてきて、全世界の武力を結集して戦わなければいけないことになったら、多分みんな「俺達地球人!」という連帯感を持つだろう。そんなときに、ネトウヨだの何だの言ってられない。


自分が今どこに軸をおいて、どの範囲に所属する人間として発言しているかを意識すること。そして、その枠組にとらわれる必要が果たしてあるのかどうかは、常に考えておいて損はない気がする。


結論としては、ガンダムってやっぱすげーよな、ってことで(違

映画中の、子供を殺す表現手法について

最近の映画において、「子供を殺す、または痛めつける」という表現方法が安易に用いられ始めたのが、すごく気にかかっている。
映画演出の不文律として「絶対に使ってはいけない」と叩きこまれていただけに、この兆候には戸惑いすら感じる。


例えば、『ミスト』という映画がある。
(以降、ネタバレを含みます)

舞台はある片田舎。
人が次々と死ぬ、得体の知れない霧(ミスト)が発生し、住民をパニックに陥れるという物語だ。

この作品では、ラストに主人公が自分の子供を殺す。
恐ろしい怪物に追われてすべての希望を失った主人公が、せめて最後に自分の手で、ということで子を殺める。

この映画自体は好きではない、というか嫌いだが、「子供の死」が物語の重要なファクターとなっているため、表現方法としては成り立っている。


よく似た内容で『ハプニング』という映画がある。
ある日突然原因不明の自殺が多発。人々は次々に理由もなくビルから飛び降り、銃口を頭に向け始める。
主人公は妻らを守りながら逃げる、という設定だ。

物語の中盤、主人公らは途中で出会った中学生くらいの子供たちと行動を共にするのだが、以下のようなシーンが有る。
・パニック状態の主人公たち。その時、かすかな望みとして小屋を発見。これで助かる!
・しかし、小屋の住人は疑心暗鬼状態で発砲。子供たちは死ぬ。
・助かることなどできない、と主人公たちは悟る。

この場合、この子たちの死には「この先どうなってしまうのだろう」という観客の不安を煽る効果しかない。それだけなら他にいくらでも方法があるにも関わらず、演出効果を上げるための道具として「子供の死」が使われているのだ。

もっと軽い例だと、『TED』というコメディ作品の中にも、襲い掛かってくる子供をあっさりとぶん殴る、というシーンがある。
これも「ひとつの笑い」として消化されるだけで、なくても成立するシーンだ。

『ハプニング』でも『TED』でも、登場する子供は確かに生意気だし憎らしいが、だからと言って殴ったり殺していいわけはない。映画だから許される、ということも断じてない。


「子供の死」という描写は観ているものの心をえぐる。だからこそ、何かを表現する方法のひとつとして「子供を殺す」という手段は、芸術の不文律として絶対にNGだったはずだ。
ハリウッドでもどこでも、みんなそれを守っていた。しかしここ数年だろうか。作品の根幹に関わらない部分で子供が傷つけられる描写を目にするようになったのは。

社会に生きる大人として、子供は常に守るべき対象だ。
それがどんなに生意気だからといって、よしんば重大な犯罪を犯したからといって、傷つけたり処罰していいものではない。

どこからを「大人」とみなすかは難しい問題だが、少なくとも中学生くらいはまだ子供だろう。


例えば敵の残酷さを際だたせるために、例えば悲しみを一層増幅させるために、子供を傷つけるという表現方法しか取れないような監督は、三流以下だと断言したい。

はてブコメント欄の「要約機能」としての優秀さ

私は、はてなブックマークのヘビーユーザーだ。
ホットエントリは毎日必ず見るし、日によっては何度もアクセスする。

いや、正直に言おう。暇な時は全ジャンルをくまなく周回してしまう。

そんなはてブで、たまに、「気にはなるが、読むほどではなさそう」という記事に出会うことがある。

私はそんな時、はてブコメントを参照することにしている。
はてなスターが多くついたコメントを見るだけで、その記事の概要が分かるからである。

例えば今日話題になったこの記事。
車に乗らなくなった米国人 若者は「忙しいから」免許を取らない:JBpress(日本ビジネスプレス)

タイトルで「おや?」と気にはなったけど、なんとなくじっくり読む気にはならない。
ということで、早速はてブコメントを見た。

(現時点で)はてなスターが多く付いているコメントは、

allezvous
公共交通機関がなければ車離れは成立し得ないから、アメリカでも都市への集中が始まっているってことか。たぶん、移民は農村に居着かず都市で暮らす一方、農村の住民が減り始めてるからだと思うが。
tamtam3
走行距離が減ったのは、激安でそこそこ快適な長距離バスがシノギを競ってるからだよ(ぼそっ) チャイナバスやメガバスだと2000円チョイで500㌔ー1000㌔走るんだぞ・・・
lastline
でもこれ、そこそこ都会に限った話だと思うけどな。アメリカの郊外は車ないと生活できないし


これだけで、
・米国と言っても、主に都市部の話
・交通機関が発達した日本(東京)と同じような現象

ということが、わずか数行で分かる。これで更に興味を持てば本文を読めばいいのだ。

(私にとって)ラッキーな事に、このコメント欄で、はてなスターをもらって自己承認欲求を満たすことに、心血を注ぐ人たちがいる。
100文字の字数制限の中、いかに的確に記事内容を要約、指摘、批判できるかにネット上の居場所を見つけんとする職人たちが「はてな村」には大勢いるのだ。

しかも、はてな村民はインターネットリテラシーが高く、常識もあるため、Facebookで人気となるような感動系の記事にも、ひねくれた、もとい、こじらせた、いや、異なった着眼点を教えてくれる。

文字にすると皮肉っぽくなってしまうけども、そんなことはない。本当に。
私は、社会を見る視点において一定以上の良識を持つという意味で、はてブユーザを信頼している。

ただ、入りたくはない。ちょっと遠くから見ていたい。


とにかく、はてブコメントは「ソーシャルの力で高度に研ぎ澄まされた記事要約機能」としても大変便利なので、そんな使い方どうですか、とオススメする次第。