マイケル・ジャクソン 世界でもっとも敬われ、もっとも罵られた男

マイケル・ジャクソンが死んだ、と聞いた時、私は何の実感もなかった。
「あぁ、そうなのか」と何か「1+1=2」という数式を聞いたような感覚しか湧かなかった。

彼は人間とか、生物とか、そういった「実体」を超越して存在した個体なのだと改めて知った。

「君たちに見せたい、いや、君たちこそ見るべきだ」と言って、授業の時間を割いて「Thriller」と「BAD」のVCを見せてもらったのは、夏の暑い日だった。
重いベータのビデオデッキをえっちらおっちら運び、嬉々としてビデオを再生してくれたその音楽の教師には、感謝してもしきれない。

特に「Thriller」は幼い私にはあまりにも恐ろしく、正視できないものだった。しかしそれでも、これが何かとてつもないものだとすぐに認識した。

それは、私の人生に決定的な影響を与えた。こんな風に、人を心の底からワクワクさせる、楽しませることがしてみたいと思った。

しかしその時でさえ「こんな人になりたい」とは到底思えなかった。それほどまでに、彼はあまりにも遠い存在だった。

彼のような真の意味での「スーパースター」は、もう現れないだろう。
そして、これほどまでに多くの人に敬われ、かつ罵られた男ももう出ないだろう。

ある人はあなたを神と崇め、あなたと同じように顔を整形した。そしてある人はあなたを口汚く罵り、軽蔑し、非難した。あなたのような存在を嘲笑して、精神の充足を得るために。

その心境は、いかばかりだろう。それに耐えるために、自己を守るために、精神の安息を得るために、心と体のどれだけを潰したのだろうか。
そしてそんな姿は、圧倒的な痛みを抱えて満身創痍で立ち向かう姿は、不思議に誰よりも人間臭かった。

あなたには「友」と言える人がいたのだろうか。
あなたと同じ目線で、あなたの悩みを親身になって聞ける存在があったのだろうか。

MJ、おそらく他の多くの人と同じように、私はあなたと共に生きたことを誇りにし、自慢するだろう。
誰でも努力すればなんだって可能だ。そう信じているけれど、きっと誰がどんなに努力をしても、あなたにはなれないだろう。

相変わらず、MJが死んだとは思えない。
ただ、どうやらもう新譜は出ないだろうことは分かってきた。それは、もう随分前から覚悟していたけれどね。

みんな、他人にそんなに興味ない

人間関係で悩まない人はまずいないと思う。

そしてこのやっかいなものをこじらせて、うつ病や重度の精神的ダメージを受けてしまう人も多い。
一度罹ると元に戻すのが難しい場合もあり、自分という個人の内面ではなく「人間関係」という外部要因で、人生が時に全く異なった方向に行くというのは、非常にもったいないというか、誰もが十分気をつけるべきことなのではないかと思う。

私自身は、運がよかったのか、現時点までそのような精神疾患を患ったことはない。
ただ、おそらく人より他人の顔色が気になる性格であり、身近なところで言えば、例えばメッセンジャーやメールの返信がなかなか来ないとか、全然誘われなくなったとか、誘っても断られるとかでいちいち「何か悪いことしたっけな」とか「嫌われちゃったかな」などと思ってしまうことがあった。

人間、マイナスの感情をもたれるのは嫌なものだ。
しかし実際は「嫌われた」わけではなく「興味がない」だけなのだ、と思うようにすると結構楽になった。マイナスではなく、かといってプラスでもなく、フラットなのだ。

自分に照らしてみても、嫌われたから無視する、ということはまずない。むしろ嫌いな人のほうが丁重に対処するはずだ。
それに、そんな細かいことであれば自分も結構やっている。人間、自分がやられた「嫌なこと」はよく覚えているが、他人にやった「嫌なこと」はすぐ忘れようとするのだ。

当然、こんなことで「うつ病が治る」なんてことはないだろう。
私は以前、境界性人格障害の人が身近にいたことがあったのだが、どんなに正論をぶつけてもよくなることはないし、むしろ正論がマイナスに作用することも多々あった(まぁそれは、人の性格が中々変わらないのと同じだと思うけど)。
そういう方は、やはり自分にあった病院なり、プロの先生を見つけることが最善かなと思う。

あくまで心身ともに健康だが、ちょっと人間関係に疲れ気味で、人の顔色が気になる、自分は他人に嫌われているんじゃないか、と思っちゃう人は「みんな、そんなに自分に興味ないだけ」と思えば楽になることもあるかもしれないよ、ということでした。

※内容はあくまで個人的な意見です。私は精神病やその他の疾患の専門家ではありません。

新入社員の方へ 部下を叱るときは、叱られるときより緊張するものです

会社勤めであれば、まぁ最初は普通、誰かの下で働くことになる。
私も数々の上司に会ってきて、もう衝突しすぎて、目もあわせられないほど人間関係がボロボロになってしまった人もいれば、本当に心から尊敬でき「こんな風になりたい」と思える人もいた。

ただやはり部下という立場だと不満が多くなりがちというか、自分のやりたいようにできずストレスがたまることが多い気がしていた。

しかし、部下を持ったら持ったで、また別の大変さがあるものだということに最近気づきはじめた。

まず、やはり人間には色んなタイプがいる。
若くても、いや若いからか、自分の意見が正しいと信じてがむしゃらに主張してくる人。
それはそれですばらしい特性なのだが、如何せん一度思い込むと周りがすっかり見えなくなることが多い。たとえ失敗したりしても「自分は正しいと思った。悪いことはしていない」となりがちだ。
思わず「言い訳するな」と言いたくなるのをぐっとこらえて、間違いを正したり、助言を与えられる際、なるべくプライドを傷つけないように苦心する。

そういう時は、例えばまず相手の意見を認めたうえで「では、こういう角度から見るとどうなる?」とか、とにかく別の視点を与えてあげる。
いったん納得すると、次からきちんとそういう考え方ができるようになるから不思議だ。

辛抱たまらず「いいから、とりあえず言った通りやっておいて」と言ってしまったら一巻の終わり。
こちらの信頼も失い、「意見を主張する」というすばらしい長所もつぶしてしまうことになるからだ。最悪、腐って何もしなくなることもある。基本的にプライドが高いので、それを取り戻すのは非常に困難だ。

反対に、中々自分の意見を言えないタイプ。これはこれで困る。
知識も豊富で頭もいいのだけど、大人しい人に多い。会議中などに「本当はこうした方がいいのに」とか「あぁ…このデータは間違っているのになぁ…」など頭の中では分かっているのに、口に出すことができないようだ。
そして、会議が終わった後などにこっそり「あの、僕思うんですけど…」とはじめる。そして、大概その意見は正しい。
本人もそれを分かっているから、意見を主張しないことが悪いことだとは思わない傾向がある。「ほら、やっぱり僕は正しかった」と納得し、満足してしまうようだ。

基本的にこういうタイプは真面目なので、何かにじっくりと取り組ませるとすごく実力を発揮する。なので、なるべくそういう仕事を回すように心がけるのだけど、やはり「人前で発言する」という能力は、ほとんどどんな職種でも必須だと思うので、何とか身につけて欲しいと願う。

しかし性格を変えることは非常に困難だ。その場合私は、
・会議は決定の場だから、何も発言しなければ同意したことになる。
・発言することも仕事だと思って、訓練するように。
・間違いを恐れない。誰も君の間違いなど気にしない。ほかの人が間違ったことを言っても君が気にしないように。

と、まぁ当たり前のことを伝えるようにした。それでも中々難しいこともあるが、頑張って発言しようとしている姿を見ると、表情には表さないが心の中で猛烈に応援してしまう。

そして、困るのは注意する時とその基準だ。
期限を守れなかったとか、頼んだ仕事を忘れていたとかいう凡ミスなら簡単だ。
しかし、部下が何となく自分の想像していた方向と違う方に歩みはじめている時、それが正しいのかどうか分からないことがある。これが非常に困る。

それは、結局「自分の経験」という物差ししかないからだろう。
想定外のことをしているけど、これは若い感性だからゆえなのかもしれない。このまま行けば、大成功するかもしれない。行かせるべきか、止めるべきか… それだけで何日も悩んだりする。

そういう時は、もう全部さらけ出して話すことにした。
「私の経験ではこうだったのだけど、君はどうしてそうするの?」みたいに。それで、なるべくお互いにモヤモヤを残さないように努める。
結局、とことん話し合うことが一番大事なのかなぁと思う。それでも不服そうなことがあるのが困るのだけど…

そして、これまた悩むのは生活上のことだ。
ティッシュの箱をつぶさないで捨てるとか、くしゃみをする時に手をつかわないとか、そこまで私が言うことでもないよなぁ… などと考えると、どこまで言っていいものか非常に悩む。
正直「いちいち小姑みたいにうるさい奴だ」と思われたくもないし、でも「ここで直さなければ、このさき恥をかくことになる」という思いもある。

上司から「○○君、ちょっといいかな」と切り出されるのは嫌なものだが、上司は上司で「これは彼の成長のためだ。ここで言わなきゃずっと気づかないかもしれない。今なら暇そうだな。よし、言うぞ」と思いながら結構ドキドキしているものなのだ。

新入社員のみなさん、上司に怒られることもあるかもしれないけど、上司は上司でそんな風に考えているので、怒られてもあまりへこむ必要はないですよ、ということです。

いや、へこまないでください。お願いします…

読みやすい文章を書くちょっとしたコツ

仕事で文章を扱うことが多いのだが、文章には、やはり読みやすいものとそうでないものがある。

もちろん、構成力や表現力が大きく関わってくるので一概には言えないが「文章を読みやすくする」テクニックというのはあると思う。そしてそれは、気をつけさえすればすぐにできる。

※文法の正式な知識はほとんどなく、すべて自己流です。

1:なくても意味が通じる言葉は極力なくす、または代用

とりあえず、これに尽きると思う。

文章を書くうちについつい陥りがちなのが、話し言葉で書くこと。
推定、形容などは別として、「なくても意味が変わらないな」と思ったらなるべく削除する。

「ような、ように」

    黙って従うようなことはしない。
    黙って従うことはしない。

※削除しない方がいいケース(意味が変わってしまう)

    異次元からきたような物体
    異次元からきた物体

「なの」

    そういう訳なのだが
    そういう訳だが

「のだが(のだとetc…)」

    信じているのだが
    信じているが

「だろう」

    そうだろうと思う。
    そうだと思う。

「という、ということ」

    その理由というのは
    その理由は

「けれど、けど」

    ではないけれど、
    ではないが、

実際につなげてみると…

黙って従うようなことはしない。とにかく、そういう訳なのだ。
私はそう信じているのだが、彼もそうだろうと思う。
その理由というのは…

黙って従うことはしない。とにかく、そういう訳だ。
私はそう信じているが、彼もそうだと思う。
その理由は…

ほ~ら、少し読みやすくなった… かな…?

2:ひらがなを多用

漢字を適度にひらがなに置き換えるだけで、文章はやわらかみを増し、読みやすくなる。
論文などは別として、ブログの記事などでは有効な手法だと思われる。

どんな言葉をひらがなにするかは迷うところだが、私が気をつけているのは
「時(とき)」「事(こと)」「出来る(できる)」「等(など)」「物(もの)」「所(ところ)」など、比較的よく使う言葉が多い。
文章中で統一できていれば、例えばブログ全記事で統一する必要はないと思う。

    あの時、そんな事が。
    あの時、そんなことが。
    あのとき、そんなことが。

3:同じ語尾を連続で使わない

これはそのままで、語尾が同じだと読んだとき違和感があるので、言い回しを意図的に変える。

    事前にこれを見ていただきますと、スムーズに取り組んでいただけます。
    事前にこれを見ていただきますと、スムーズに取り組めます。

4:句読点と改行を活用

句読点のつけどころは人によって実はすごく差があるが、私は小学校で習ったとおり「読んだときに息つぎするところ」および「ブロック単位で独立している文章」を意識している。
また、普通なら必要な場合でも「」の前後にはあまりつけないようにしている。「」自体が文章を区切る目的を果たしているからだ。

難しいのは改行で、これはブログやメールだけの話になるが、以下の3パターンがあると思う。

a:段落ごとにいれるもの
もっともオーソドックスなもの。段落と段落の間に改行を入れるかどうかは、必ず入れる人と、違う話題になったことを意図的に明示するために入れる人がいる。

「アルファブロガー2008」というところから引っ張ってきた例文をつけてみた。
 小沢一郎氏の初当選からの言動を振り返る・その一

b:レイアウトのために入れるもの
文章の途中でも、レイアウトを重視するためにあえて改行を入れるもの。
 大野事件の終焉:無罪確定

ビジュアル的に読みやすくなる効果があるものの、あまり入れすぎるとケータイ小説みたいになるので要注意。
また、ブラウザやメーラーによってフォントの幅も異なり、意図しないところに改行が入ってしまわないよう注意するのが結構大変。

失敗例:

    あたし、べつに大学なんかいきたくない
    し、
    ていうか、お前が決めんなよ、みたいな。

c:「オチ」のために使うもの
古くは「僕秩」のヨシナガさんから、「鬼嫁日記」まで、話のオチを引っ張るために、意図的に改行を多く入れる場合がある。
ただしこれは文章がうまいことが前提で、普通の人がたいしたオチもないのに多用すると結構ツライ。

失敗例:

    だから、声を大にして僕は言いたい!

    何も分かってない世の女どもよ!

    たまには僕にかまってよ^^;

特に「1」は、事実を述べたり意見を表明する文章に向いており、普通の日記や友だち同士の文章はもっと表現力旺盛な方がいいと思う。
また、当ブログで「ですます調」ではなく「である調」を使っているのもなるべく文章を短くするためなのだが、やはり威圧的という印象も与えてしまう。

初めからこれを意識して書く必要はなく、何も気にせずに一度文章を完成させてから、推敲時に添削するのが効果的だと思う。

孤独と戦うということ

ある日のこと。住宅地を歩いていると、小さな体に似合わぬ大荷物を持ったおばあちゃんが目の前を横切った。
「あー重い。あーーー重い」と言いながら歩く姿は、まるでコントのような滑稽さもあった。

「持ちましょうか」と声をかけると、待ってましたとばかりに「すまないねぇ」と言って笑った。

道すがら、おばあちゃんはいろんな話をしてくれた。この土地はもう長いのだとか、いつも買い物が大変なのだとか。
ほどなく着いた場所は、「超」がつくくらいの高級マンションだった。おばあちゃんはそこで一人暮らしをしているらしい。

ドアの前で失礼しようと思ったのだが、半ば強引に誘うおばあちゃんに根負けし、部屋の中に入った。
そして、玄関で少し異様な光景を見た。

開いた状態の無数の傘で埋め尽くされ、その他にもさまざまなものが置かれてまるでバリケードのようだったのだ。

おばあちゃんは「ここの管理人はひどい。留守のときに勝手に家の中に上がって、お金を盗んでいくんだ」と言った。だからこうして入りにくくしているのだと。

部屋は3LDKほどもあり、調度品も豪華なものばかり。驚きのあまり聞いてみると、すべてアメリカに住む息子さんに払ってもらっているのだそうだ。
何をしている方かまでは聞かなかったが、おそらく相当な成功を収めているのだろう。

しかし、一人暮らしの老人には明らかに広すぎるその部屋は、多くがほこりにまみれ、悪臭を放っているところもあった。
お手伝いさんを呼んだら、という提案も、管理人と同じことをされると断られた。

出してもらったお茶を飲みながら、またいろんな話をした。というより、おばあちゃんが一方的にしゃべった。

旦那さんに先立たれたこと、息子さんは二人いたものの病気で一人を亡くされたこと、親戚にはほとんど会わないこと。

そんなとき「おばあちゃんもアメリカに行ったら?」と気軽に言ってしまった。その時、はじめて少し悲しそうな顔をした。
半年に一度ほど帰国する息子さんも、同じように熱心に誘ってくれるのだそうだ。しかし、おばあちゃんは頑なに拒絶する。「日本が好き。アメリカは怖い」と、そう言っていた。

帰り際、おばあちゃんはとんでもない大金を渡そうとした。私はそれを丁重に断り、部屋を後にした。

そして、部屋を出てから思った。多分、管理人がお金を盗るというのは、おばあちゃんの勘違いではないかな。
さっきみたいに誰彼かまわずお金をあげてしまい、そしてそれを忘れてしまうのではないかと。

もちろん勝手な思い込みかもしれない。だけど、振り返ってもやはり豪奢すぎるその建物を見ていると、何だか身を切るような切ない気持ちに襲われた。

哀れんでいるわけではない。私はそんなに偉くも強くもない。

しかし、今日もおばあちゃんは、あの立派なソファに座って、玄関を傘で守りながら一人でテレビを見ているのかなとか、あの小さな体にはとても大きすぎるベッドで眠っているのかなと考えると、何ともいえない気持ちになることは確かだ。

同時に、わずか60年前には50歳そこそこだった平均寿命が80歳を優に超えるようになった現代の、いまだ解決できていない問題のひとつでもあるのだと肌で感じた。

孤独と戦うというのは、とても困難だ。時に打ち負かされそうになることもある。
これからの人生、孤独と戦うことが何度となくあるだろう。自分はあのおばあちゃんのように、凛として立ち向かっていけるだろうか。

おばあちゃん。もう一度訪ねたら、覚えていてくれるかな。