ブッシュ元大統領の支持率を振り返る

バラク・オバマが華々しく大統領に就任した。
メディアを見る限りだが、まるで世界に救世主が現れたかと思われるほどだった。

支持率は68%に達し、第二次大戦以降ではケネディ大統領に次ぐ数値だそうだ。

一方で、まるで悪人のように追い立てられ、静かにその座を去ったジョージ・W・ブッシュ。
「史上最低の大統領」と罵られた彼は、しかし「史上最高」の支持率を記録した大統領でもある。
その数字はなんと「92%」。それは、あの9.11の直後だった。

僕は過去を掘り返す暗い人間なので、もとい、過去の失敗から色々と学べるのではないか、ということで、彼の支持率の変遷と主に中東情勢を中心に時代背景をおさらいしてみた。

ミネソタ大学のSteven Ruggles教授のページに興味深いグラフがあった。

091225_11

ご覧のとおり、それまで50%そこそこだったブッシュ大統領の支持率は、9.11直後に跳ねあがっている。
あの衝撃的な光景を目にしたアメリカ国民は「テロ組織を撲滅せよ!」と一致団結したのだ。

その後の2002年、「悪の枢軸」発言で特にイラクに対する懸念を明確にしたブッシュは、彼らが「大量破壊兵器を持っている」と断言(結果的にはなかった)、遂にはサダム・フセインに対しイラク戦争を仕掛けた。

再度グラフを見てみると、落ち込んでいた支持率がこの時期にまたもや急回復している。
そして、2003年末のフセインの逮捕によっても(徐々に落ち込み始めているが)支持率が上昇しているのが分かる。

現在のアメリカ国民は、特に「大量破壊兵器」にまつわるブッシュのウソに嫌悪感を示しているように見受けられる。

ブッシュはフセインを殺したかった。だから適当な理由をでっち上げた。それに反対した幹部を更迭してまで。

という感じに。

しかし、2回目の大統領選挙直前の2004年、元財務長官のポール・オニールによって「ブッシュ政権は01年の発足直後から、フセインを世界から抹消するという信念があった」と暴露されたにもかかわらず、ブッシュは二選を果たした。
それを知ってもなお、アメリカ国民は彼に国を預けた。

その後、長引くイラク戦争で国は疲弊し、事態は収束するどころか余計に悪化してしまった。
戦争に資金をつかいすぎたせいもあり、国の債務は大幅に増え、経済状況は悪化し、退任直前にはこのとんでもない金融危機まで置き土産にした。

ここまで揃うと確かに「史上最低の大統領」の評価もうなずける。

ただ、ブッシュの目的が本当に自分の父親の宿敵でもあるサダム・フセインの打倒だとしたら、当時のアメリカ国民もまんざら「おかしい」とは思っていなかったのではないかなぁ、という気がしてしまう。

9.11直後、「仇を討て!」と血気盛んな国民に対し「まぁ、とりあえず落ち着け」と果たしてブッシュ以外の人だったら言えたのだろうか。そしてもし言えていたら、今ごろ稀代の名将として称えられていたのだろうか。

アメリカ国民:ブッシュはウソばかり。大量破壊兵器なんか持ってないじゃないか。
ブッシュ:だってみんながやれって言うから。

こうして支持率の変遷だけ見ると、そんな「学級委員に責任を押しつけるクラスメイト」風に見えなくもない。
果たして国民がだまされたのか、ブッシュがうまく国民を操っていたのか。本当はどっちだったのだろうか。

現在、アメリカ国民はバラク・オバマによるChangeに胸を焦がしているが、あまり過大な期待をかけすぎるのもどうなのかな、と思った次第。

そして、そのブッシュを強烈に支持した小泉政権もまた、日本国民によって高い支持率を誇っていたことも忘れないでおきたいと思う。つくづく、政治を見る目は難しいと感じる。

自己責任論は弱者の足の引っぱりあい

English follows after Japanese…

大学のころ、授業中に教授が児童福祉だかの寄付を行うために募金箱を回した。
「強制ではない」という言葉通り、札を入れる人や1円を入れる人、もちろん何も入れない人もいた。

ところが、90分の授業が終わっても箱は戻ってこなかった。まさか誰かが盗んだのでは…?

そうではなかった。一番後ろでケラケラ笑いながらしゃべっていた奴らの机の上に置きっぱなしになっていたのだ。
そいつらはそのときまで、まるで自分には関係ないという顔でそのまま放置していたのだろう。

授業が終わって教室を出るときにそのことに気づいた僕は、殺意にも似た激しい怒りと、ひどい絶望感に襲われた。
寄付なんて自由だ。しかし、ただ「募金箱を隣の人に渡す」という、善意ともいえないことすらしない人間がこんなにも身近に、少なくとも同じ教室で勉強をする中にいたことは大きなショックだった。

今の「派遣叩き」を見ていると、あの時と同じ感覚になるときがある。
大企業を優遇する政策を、もちろん一国の景況をよくするためとはいえ政府が執り行い、それによって人間の尊厳(と言っては大げさかもしれないけど)のような、もっと大事な何かが失われかけているのに、やれタバコを吸うな、努力が足りない、俺たちも薄給でがんばっているんだと、弱者が弱者を責め立てているのだ。

確かにワーキングプアに代表されるように、努力しているのに、身を粉にして働いているのに賃金が上がらない、苦しい生活を強いられている人は多い。

しかしその怒りの矛先がより弱い人たちに向かっていくのは、まさにお上に操られている証拠じゃないか。まるで農民の下に「エタ・ヒニン」を作ることで民衆の怒りを抑えた、江戸時代の政策みたいに。
我々の敵はそこではないはず。むしろ我々は仲間のはずなんだ。

いつの時代だって、政府が最も恐れるのは国民だ。国民が怒り狂ったら手のつけようがない。
だからこそ武器を奪い、金を奪い、物を奪って力をなくし、感情をコントロールすることに努めていた。僕らは政府やマスコミに踊らされているばっかりじゃダメなはずだ。

阪神大震災から今日でもう14年。あの時僕らは協力しあわなかったか。
瓦礫の下のわが子をかばい、素人が命を懸けて隣人の救出活動をおこない、尽きることなく燃えさかる炎に立ち向かい、何の対価もないのに毎週末にボランティアに繰り出したじゃないか。

そんな人は一部だった。でも、心を痛めたじゃないか。辛い気持ちを共有した仲間じゃないのか。

神戸の人たちに「そんなところに住んでいるのが悪い」と言うのか?そんなどうしようもなくギスギスした社会なのか。

天災と今の経済危機を一緒にするのはおかしい。
でも、今は本当に国家がどうなるかという瀬戸際にある。このままでは絶対にまずい。僕らは「敵」を見誤っちゃいけないんだ。

キレイゴトかもしれない。

でも少なくとも僕は、あの時ケラケラ笑っていたあんな奴らにだけはなりたくない。

——————————————————————
In the days of a university, Mr. professor turned a collecting box so that a performed the contribution that was child welfare during a class.
According to the not to “be compulsion”, there were the person who put a bills and the person who put \1, the person whom of course could nothing.

However, the box did not return even if a class was over. Indeed somebody stole it…?

It was not so. It was left behind on a desk, where some guys who talked while laughing each other.
Those fellows would just leave you unattended with a face to totally have nothing to do with oneself until the time.

I who noticed it when a class was over and left the classroom was attacked by the intense anger that resembled the urge to kill and a feeling of terrible despair.
Contribution is free. However, it was a big shock to have been in the inside that the person who did not do even that it cannot be said with the good will to “hand a collecting box to the next person” was only like this, and studied in the close same classroom.

There is time to be in that time and the same sense when I watch the present “part-time-workers beating”.
Though a policy to receive a big business warmly be said of course to make business conditions of one country better, and the government holds it, and anything which is more important which seems to be human dignity thereby (though I may be exaggerated when I say) is about to be lost, the weak tortures the weak.

There are surely many people forced to the painful life that a wage does not stop to make an effort so that it is represented by though I work with one’s blood and guts.

However, is it the evidence that is right handled in the government that leave for the people who are poorer at the object of attack of the anger? Like the policy of the Edo era when the edo-gorvement controlled the anger of the people by making “human class system”.
Our enemy cannot be there. Rather we should be friends.

It is the nation that the government is afraid most even in what time of times. If the nation gets furiously angry; of the hand cannot arrive.
Therefore they took a weapon and money and quality and got rid of power and tried for controlling feelings. We must wide open with eyes for the government and the mass communication.

It is another 14 years from Great Hanshin Earthquake by today. Did not we cooperate at that time?
Someone protected his child under the debris, and an amateurs performed the rescue operation of the neighbor at the risk of life and firemans confronted the flame which blazed without being simply it, and what value flocked for a volunteer in every what there was not on the weekend.

Such person was a part. But we feel anxious, didn’t we?

Do you say to people of Kobe that it “is bad to live in such a place”? Is it such a helplessly unsociable society?

It is strange to do a natural disaster and the present economic crisis together.
But the last moment how turns out really has a nation now. In this situation is absolutely bad. We must not take a wrong enemy.

I do not want to become “the laughing guys” at that time.

派遣労働と、それに対して個人個人が取るべきスタンスについて

いつか考えをまとめたいと思って後回しになっていたのだが、年末年始少し時間ができたこともあり、俗にいう「派遣労働」の問題について考えてみたい。

この問題は複雑だ。ゆえに、明確な解決案はでない。「誰が悪い」というのも決められない。ただ、その複雑さゆえに、我々は問題の本質から「目を背けさせられている」のではないか。

これには、経営者と派遣労働者だけではなく、正規雇用といわれる労働者、政府、ほとんどすべての国民がかかわっている。
なので、単純に「企業が派遣をクビにするのはひどい」なんてことは言えなくて、我々はそれぞれ、自分たちの立場と意見を明確に持っておく必要がある。

まず「派遣」と「正社員」のメリットだけを非常に簡単に対にすると、
手厚い保護が受けられ、企業が存続し続け、自分が望みさえすればほぼ終身雇用が可能

人間関係などのしがらみに捉われることなく、手に職をつければ自由にさまざまな場所で労働を行い、報酬を受け取ることが可能

といったところだろうか。まるで賃貸と分譲みたいになってきたが。
とにかくそんな感じで、今まではそれぞれのライフスタイルに合わせ、なんとなくうまく回っていたようにも思えた。

しかし、事態が急転したのはやはり、小泉・竹中の両名が「構造改革」を掲げて経団連と仲良く手を組み、派遣労働者を製造業にも従事できるよう法律を改正してからだ。
これによって派遣労働者は急増した。ちなみに、派遣労働者の労災は9倍にもなったそうだ。

ただそれによって、日本企業が力を取り戻したのも事実だった。
グラフを見ていただければ分かるが、企業の現金保有を示す内部留保は年々上がり、正社員と平均賃金は反比例して下がっている。
グッドウィルやフルキャストなどといった、古くから存在した人材派遣会社も急激に業績を伸ばした。
金融危機なんかが起きなければ、日本経済はこのまま、ゆるいながらも成長を続けるはずだった。

では、やはり「企業はお金をいっぱい持っているくせに、派遣を切っている。おまけに正社員の賃金まで下げている。ふざけんな!」となるだろうか。
少なくとも僕はNoだと思う。

最初に言ったように、この問題はあらゆる立場から考えなくてはならない。
そこで経営者の立場で考えてみると、彼らはあくまで法律にのっとった方法でこのバブル後の苦難を乗り越えてきたわけであって、その法律を制定したのが当時国民に熱狂的に支持されていた首相であったことも考えると、国民が選択した結果と言えるからだ。
だから「企業が悪いんだ説」を唱える人は、「企業も儲かって、正社員の賃金も上がって、派遣も解雇されない」代替案を提示しなければならない。

構造改革をする。それで日本の景気は良くなる。「痛み」は伴うかもしれないけれど。

確かに良くなった。国民は喜んだ。でも、政治家も経営者も分かっていた。誰かがそのツケを払わなければいけないと。
それが、派遣労働者だった。

前述のようなメリットがあった派遣も、今となってはただの「安く使いまわせる工数穴埋めの数字」と化し、その数も全労働者の1/3近くにまでなった。
ここに「働き続ける労働者層」と「それを管理する層」という、明確で前時代的な階層社会ができ(かけ)てしまったのだ。

ここで、一番ワリを食っている(と考えられる)「正社員として安定した雇用が欲しかったが、どうしても派遣にしか職がなかった」人を満たすにはどうしたらいいかを考えよう。

日本の正社員は、特にアメリカなどと比べると過剰なほど保護されている。最近はリストラも他人事ではなくなってきたとはいえ、基本的に一度雇用したらよほどのことでもない限り解雇されない。大幅な減給や降格も珍しい。まだまだ、企業は自分や家族を守ってくれる存在であると考えている人は多い。

そしてここが大きな問題なのだが、そんな人たちの数割が、自分の生産性と比べて明らかに過多な報酬をもらっている。
もちろんすべての仕事がお金に換算できるわけではないが、年功序列、定時昇給の仕組みが「ただ長く会社にいただけ」の人がそれなりに給料をもらい続けられる構造を作ってしまった。
そして当然、彼らはその既得権にしがみつく。彼らは言う。「今まで頑張ってきたじゃないですか」と。派遣社員の未来より、自分の過去を見てくれと。

派遣労働者は、そういった人たちに搾取されているということもできる。
彼らの雇用の安定のために身を粉にし、日給9,000円で自動車工場で汗を流しているのかもしれないのだ。

ここでひとつの案として
「正社員でもクビにしやすくする。現在の派遣も正社員も同じスタートラインで、真の実力主義社会を目指す(=それで落ちこぼれたやつは仕方なし)」というのが出てくる。
ちなみにこれは、竹中平蔵の現在の考え方だ。

そして、それと対になる考え方として
「今のまま。派遣だろうが契約だろうが、運がない人はそうやって底辺で働いていればよし」というのがあるのではないだろうか。

以前、堀江貴文氏が山崎元氏の主張である「ベーシックインカム」についてブログで言及していたが、これも考え方の一つだろう。個人的には、実質生活保護と変わらなくなるのではないかと思うが。

まとめると、
「誰もが幸せになれる、超ミラクルな方法を考えつくこと」
「全員が同等の、もっと激しい競争社会を目指す」
「今のままでいいじゃんよぉ」

となった。

僕はまだどれが正しいと主張できない。それだけの知識と確信が伴っていない。
ただ、派遣労働者であるかどうかを問わず、現状に不満や不安を持っているとしたら、ではどうすればいいのか、自分のスタンスとしてもっておくべきだ。その上で考えたり発言するべきだと思う。

個人的な意見になるが、戦後の日本を強烈に立て直したのは、大正から昭和初期に生まれた人たちだ。
しかしその次の世代の人たちは、もちろん意図していたなんて思わないが、結果的にそれを食いつぶし、莫大な借金を残し、次代の若者たちにとんでもない負の遺産を残してしまった。この遺産は、それはそれは本当にとんでもないよ。
僕は、100年後の日本は機能しなくなっているんじゃないか、もしかしたらなくなってるんじゃないかとたまに本気で怖くなることがある。

そして現在派遣労働者として働いている、特に若い人たちに言いたいのは、前述のような狡猾な大人たちに目を眩まされている可能性があることを認識すべきだということ。
変えたいと思うなら、何らかのアクションを起こさなければダメだ。誰かが考えてくれるなんて甘い。人間、楽な境遇にいると、何かを変えたいなんてこれっぽっちも思わないことを忘れてはいけない。

たとえばそういった主張をする政治家を見つけ出して応援をするとか、実際に投票をするとか。
ただ、僕も見つけてみようと思ったのだがなかなかいない。それはそうだ。全体の2/3である多数派を敵に回しては選挙に勝てない。
でも、それでも問題意識をもち続けることだ。そうしないと、また政治家やマスコミに目を眩まされ、企業の小手先の対応に満足する、ということを繰り返してしまうから。

そして誰も「企業は派遣を雇ってやれよ」なんて気楽に言ってはならない。それでは社会は絶対に良くならない。

ずいぶん長いエントリーになってしまった。。
もし最後までお読みいただいた方がいらっしゃれば、ありがとうございました。この問題は難しいので、またいつか書くかもしれません。