コミュニティサイトを形作るもの

普段何気なく使っているコミュニティサイト。しかし、作る側は当然様々な計算を施している。
何気なく作ってもうまくはいかない。

ショッピングサイトは「購買欲」をいかにくすぐるかが勝負だが、コミュニティサイトも人間の「欲」をうまく満足させることが肝であり、その「欲」は普段表に出せないものが多い。

その欲とは何か。
最近コミュニティサイトを作ることになったので、自分のまとめのために書いとく。


■自己顕示欲

コミュニティサイトに入って、まず最初に心地よさを感じるのがこれ。
通常のサイトは、基本的にすべての人にとって平等に作られているが、コミュニティサイトはそれぞれ見ているものが異なり、各人にとってオリジナルだ。
そこには嫌な上司もいなければいじめっ子もいない、すべての中心が自分である快適な世界が広がっている。例え、現実の世界ではそうでなくとも。

仕事の愚痴を聞いてくれ、身の回りで起こった些細なことにも同調してくれる友人がいる。この「心地よさ」をくすぐるのが、コミュニティサイトの第一の肝だ。
そのことによって、多くの人が自己を惜しげもなく披露できる。

「目立つのが嫌い」と口で言う人は多いが、どんな人間でも自分に注目が集まるのに心地良さを感じることがある。

例:日記、アルバム、(バッジとしての)コミュニティ


■所属欲

人間は、集団に属することで気分が安定する。もちろんマイノリティである自分に酔いしれるときもあるが、常にひとりでいることには絶対に耐えられない。それはすなわち「孤独」だからだ。

ある一定以上の社会的つながりを持っていなければ、人間は正常に生きていけない。アレキサンダー・セルカークだって、一生一人で過ごしてはいない。

例:コミュニティ、ファンページ、ハッシュタグ


■自己肯定欲

自己顕示欲と近いが、多くの人は「自分を認めてもらいたい」と願うものだ。
面白いと感じたことや、趣味や嗜好に同調してもらえること。それは、最高の安心感を伴って自己を内面から肯定してくれる。

そして他人の情報を見ているときにも、実はそれを感じている。
自分の日常は憂鬱で退屈なものだと思っているが、近しい友人も同じような生活をしている。本当にやりたいことがあってもやれない自分がいる。でもそれも自分だけじゃない。友達もそうだ。
良くも悪くも、人は他人を見て安心感を得ようとするものだ。

例:あしあと、イイね、日記へのコメント、他人の日記


■新規牲

欲とは異なるが、これはコミュニティサイトで最も中毒牲のあるものだ。
ややもすると、多くの人が「飽き」や「手間」から、自己発信をやめてしまう。
しかしそれでもコミュニティサイトにアクセスするのは、そこに新しい情報が待っているからだ。ほとんどの人にとっては取るに足りない、しかし当人にとっては面白い、親しい友人が発信する情報がそこにはある。
例え自分が更新をしなくても、頻繁にアクセスしてしまう。逆に友達が誰も更新をしなくなったら、自然と足が遠のく。

YahooのトップページやGoogleNewsに何度もアクセスしてしまうのも、原理は同じだ。

例:あしあと、友達の更新情報


■関係性の復活

SNSにしばらくアクセスしなくなっても、退会する人は稀だ。それは、いつ来るかもしれない旧知の友人からの便りを待っているからである。
今までの社会では諦めるしかなかった関係性が、いつの日か復活するかもしれないからだ。
個人的には、これこそがコミュニティサイトでもっとも価値のある点だと思っている。

例:友達検索、友達申請


コミュニケーションを上手に行うことは、人生を豊かにし有利にする。
しかし、それをあからさまに行うと、結果的に失敗する。うまいこと隠しつつ、それでも欲求を満足させつつ……

コミュニティサイトを作るのは中々どうして難しい。

「ソーシャルメディア」の定義なんて人それぞれ

佐々木俊尚さんTechwaveの湯川さんを中心に「ソーシャルメディア」が熱かったので、どさくさにまぎれて自分の意見を書いてみたい。


少なくとも今の日本では「ソーシャルメディア」という言葉は2つの意味があると考えられ、荒っぽく言うと
1:ブログ、twitterなど、一般人が発する「メディアそのもの」(≠マスメディア)
2:溢れる情報の中から、知り合いを通してより良い情報をフィルタリングする「システム」


今回議論されているのは、主に2の「知り合い」とは誰なのか、ソーシャルとは何を指すのかという点だろう。

私なりの結論から言えば、別に誰でもいいんじゃね? という感じ。
リアルだろうがバーチャルだろうが、著名人だろうが無名人だろうが、自分が信用できる人なら誰でも。

まず、アメリカやFacebookの基準で考える必要はないし、日本や他の国がアメリカと同じソーシャルメディアを形成していく必要もない。
ある一面では、韓国などはアメリカよりもよほど先に「ソーシャルメディア」を形成していたと言えるし、それは「(国民番号を入力して)身元を担保した上でのバーチャル空間上の交わり」というかなり特異なものだ。
「ソーシャルメディア」という言葉は、いつ終わるかも分からない1サービスより、はるかに大きな概念ではないのだろうか。

そしてオープン、クローズドという点で言うと、ここ
 Twitter = OPEN
 Facebook = CLOSED

とあるけども、これはサービスの使い方の問題であって、オープンかクローズドかというのは「匿名か実名か」を基準に考えるべきだろう(少なくとも、Googleの検索にかかるかどうか、ではないはずだ)。
アメリカでは常識 (`・ω・´)キリッ なんてそんなことはない。

あたかも世界のすべてがソーシャルメディアで埋め尽くされる、というような人もいるけど、それも非現実的だ。どんなにソーシャルメディアが普及しても、マスメディアがなくなることはありえない。それは情報の信用度の問題もあるし、誰もが情報の一次発信を進んでやるとは考えにくい。

リアルとバーチャルを必要以上に分ける必要はないし「リアルは消滅する」なんてオカルトチックな言説もちょっと。。リアルがなくなるというのは人間関係がなくなることで、映画のような電脳世界にでも住まない限りそんな日は来ない。


余談ながら、ソーシャルメディアがより普遍的になれば「自分にとって有用な情報が意識せずとも入ってくる」という世界がやってくるだろう。それこそが、ノーベル賞を獲った鈴木章先生もおっしゃってた「セレンディピティ」に溢れた世界で、やれソーシャルだなんだと意識しなくていい日が来ると思う。


とりあえず、まだ実態が定まらないものに対して「100%間違っている」と断言するのはどうかと思うし、「そもそも社会とは何だ!」ということを、目くじらたてて議論しているようにしか見えなかったのだけども。

これ以上Twitterを続けたら弱い人間になる気がしてやめた

当ブログにもあるが、個人的に使うためのTwitterアカウントがもうひとつあった。
実名は出していないが、自分のアイデンティティーを理解している人を中心にフォローしあった。

必要に迫られて始めたものの、確かにこれは面白いと感じた。
いつの間にかTLを毎日眺め、寝る前にはすべてのレスを確認し、自分の発言にRTがつけば喜び、@つきの発言には丁寧に返信していった。
要するに、はまっていたのだ。


しかし、ある時ふと思った。
このままでは、自分はゆっくりと崩壊していくのではないか、と。

私が尊敬している人の一人に、Web系を生業としているにも関わらず、Twitterをはじめとしたソーシャルサービスをまったくやらない方がいる。
彼女はいわば貝のような人で、交際範囲も広くはない。
しかし、自分が深く愛する人たちに囲まれ、とても幸せに暮らしている。

きっと「Twitterとかやってくださいよ」と言っても「そうね。でも私はいいわ」と笑顔でかわされてしまうだろう。

そういった生活がしたいわけではないけれど、ひとつ確かなのは、彼女が強靭な精神力を持ち、とても満たされていることだ。


自分を振り返ってみると、やはり愚痴や不満の類が少なからずある。
不快な思いをしたとき、何となくそれを吐き出したくて、慰めてもらいたくて、携帯電話やパソコンに向かう。

それは不満を発散するためにも正しい使い方の一つであり、否定するつもりはない。
ただ、あくまで個人的に、こんなことを続けていたら、嫌なことを飲み込めなくなる体になってしまうのではないかと思った。
彼女、もしくは多くの人のように、何かあってもぐっとこらえて、家事やら炊事やらいつもの日常を淡々と続けていける人ほど、強い人間なのではないかと思えてきた。

そして、自分のつぶやきはほとんどが「ネタ」系のものだった。
面白いことを発見したとき、思いついたとき、誰かに笑ってほしくて「ネタ」を投下し、反応があれば素直にそれを喜んだ。
しかしそれは、目の前にいる友人と世間話をしているのとは何となく違うのではないか……

思い出話を、近況を語り合って笑いあうのはその場の時間を楽しむためが主。
これがネット上では、自分の欲求や胸の空白を埋めることが主なのではないか。たとえば、渾身のネタに反応が薄ければ、理不尽としか言いようのないいらつきを感じた。

それに、自分の意見に共感を得て、賛同してもらいたくて、賞賛してほしいのは、そもそもこんなちっぽけな場所じゃない。
もっと労力をかけた大きなものを作ってそれを公の面前にさらし、これこそが私がやりたかったものだ、私が生きている意味なのだと強く言いたい。だからこそ、私は生きているはずだ。Twitterでそれを切り売りしている場合じゃないはずだ。

そう思い、今までの書き込みをすべて消してTwitterをやめた。


もしかしたら、いつの日かまた「戻ってきちゃいましたwww」なんて言って再開するかもしれない。私は弱いから。

しかし少なくとも今は、辞めてよかったと思っている。
今まで、一瞬の感情の動きだけで喧騒の中に吐き出していたものが、自分の血肉になっていくように思えている。

B・N・Fがいかにとてつもない化け物かを再検証する

「貯蓄から投資へ」と言われて久しく、私自身も投資は行っているのだが、中にはまるで博打のようにFXや株に安易に入ってくる人がいる。

そういった人たちが揃って口にするのが「B・N・F(ジェイコム男)」である。

160万円の元手を、わずか8年で200億円以上にしたという個人投資家で、未だに「証券会社の広告塔で実在しない」という説もあるほどのアイコン的な存在だ。

もしかしたら自分でも…… ちょっと近づくくらいは……

その気持ちは分からないでもない。私だって人の事は言えない。
実際にやってしまった人がいる以上、不可能とは言い切れないが、これがいかに現実離れした数字かを再検証したい。


■160万→200億がどれだけすごいか

「元本を一定期間複利運用したとき、将来いくらになるかを計算する」のに「終価係数」というものを使う。
現在の日本では、どんなによくても金利1%が限界だろう。それを元にすると……

8年後:1,732,571円
プラス:132,571円

である。
安全で利回りの高いと言われる、米国債の10年物でもよくて5%。これだと、

8年後:2,240,000円
プラス:640,000円
※米国債は単利運用とする
※税金は考慮しない

実際、160万円の元手で8年後に64万円増えたのであれば、これはもう最高だろう。
B・N・Fはこの3万倍の結果を残している。通常の3万倍だ。シャアでも3倍、界王拳でも20倍(だっけ?)なのに。

これが自分にできるか、冷静に考えたほうがよい。


■超人的な記憶力

彼は以前「600~700銘柄の値動きは頭に入っている」と発言したことがある。
重点的に監視しているのがその1/10程度だとしても、彼が重要視するという乖離率(25日線や5日線の離れ具合)もすべて克明に頭に刻まれているはずだ。

彼はPERなどは一切見ないと言われているが、ボリンジャーバンドや一目均衡表などの一般的な指標はおそらく考慮しているだろう。

当然、株価は毎日変わる。このすべてを記憶できる能力が、彼には備わっているということだ。


■強靭な精神力と集中力

特にデイトレやスイングトレードでは、リスクを冒して私財を投じ、損をすれば見切りをつけ、多少の含み益が出ても決済せずにじっと持ち堪える、ということができなければならない。
投資経験がある人には分かるだろうが、これには強靭な精神力が必要だ。彼のように額が大きくなればなおのことだろう。

「人間は得をする喜びより、損をする悲しみの方が強い」ため、ほとんどの個人投資家が、持株が下がれば「上がるまで待とう」と考え、少しでも上がれば「下がる前にすぐに売ってしまおう」となる。

その本能に打ち勝ち、絶妙のタイミングを判断しキーボードを叩く。
これは彼に限らないが、集中力を極限まで使うため、一日のトレードが終わった頃には椅子から立ち上がれなくなるほど疲労するという。


■深い経済知識

B・N・Fは、下手な経済学者よりもよほど深い洞察力を持っていると考えられる。
それを示すのがこれ

これを読めば、「ジェイコム株で運良く儲けた」というイメージが全くの誤りであることも分かるだろう。

同じように、個人で90億円を稼いだ「cis」という投資家がいる。
それもそれでとてつもないのだが、その彼をしても「B・N・Fは神。とてもマネできない」と言う(cisのマネもできないが)。

200億円と言ったら、年俸4億の阪神・金本選手が50年かけて得られる収入であり、イチローでも10年かけてようやく届く額だ。
株なら…… と安易に思うかもしれないが、金額だけで言うなら、それこそプロ野球選手の何十倍もの努力を重ねねばダメだということだ。

とはいえ、投資自体を否定するものではない。

ギャンブルのようなイメージは捨て、運がよければB・N・Fのようになれるのではないかという妄想も捨て、きちんと勉強した上で参加すべきだということだ。
そうしないと、汗水流して稼いだお金をドブに捨てかねない。

スペイン代表が優勝したことの意味

URLやサイト名から(分かる方には)お分かりのように私はかなりのサッカー馬鹿なのだが、今まで当ブログ上でその話題は避けてきた。はじめると止まらなくなるからである。

しかし、今回のW杯でのスペイン優勝で思うことがあったので記すことにした。


スペインという国の歴史は、とてもブログの1エントリで説明しきれないほど複雑だ。非常に簡単に言えば、元々別の国を力で一緒にしてしまった、という感じ。南北朝鮮が無理やり統一されたような国、というイメージか。

そのスペインの2大都市、マドリードとバルセロナを代表するクラブの対決が「エル・クラシコ」であり、これは国を二つに分けての代理戦争と言われる。

そして、その国内でのライバル意識の強さゆえに「スペイン人は、国際試合に興味がない」とさえ言われていた。
国内に世界トップのリーグをもち、W杯でも毎回優勝候補に挙げられながら(トーナメント制になってから)最高でベスト8止まりと「永遠の優勝候補」と言われ続けた彼らの敗因は、何よりも結束力の無さが原因だった。


しかしその様子が変わってきたのは、ユーロ2008の少し前くらいからだろうか。

近代のサッカーは「堅守速攻」。イタリア代表はこれで一時代を築き、今回はあのブラジルまでもがそれを選択した。
攻撃的なサッカーは華麗だが、それでは結果が伴わないのだ。

ただ、それは決して一般受けするものではない。
ヨハン・クライフをして「醜く勝つなら美しく負ける」と言わしめるほど、美しさと強さは共存しがたい存在だった。

しかし、スペイン代表はそれをやってのけた。それこそ、黄金期のバルセロナのフットボールのごとき華麗さを、サッカーの永遠の理想である「美しく勝つ」を代表チームで体現してしまった。

そのサッカーは芸術。
私はユーロ2008を見て、これは現時点での完成型だろうと思った。答えがひとつ出てしまったとさえ思った。


そして、それから2年後。彼らはまたやってのけた。W杯での優勝という、多くのサッカー選手にとって最大の目標を果たした。

いくら素晴らしい選手が揃っていようとも、皆の気持ちがバラバラであれば勝てるわけがない。
今回の日本代表の活躍を見ても、チームワークがどれほど大事かを痛感する。

今回のスペイン代表にバルセロナの選手が多かったとはいえ、それでもさまざまな地方のメンバーが集まっていた。
彼らは重い荷物を背負いつつ、それでも俺達はやれるんだということを示してくれた。皆で同じ、ひとつの大きな目標を見ていれば、複雑な国や言語や歴史も、いがみ合うことさえも乗り越えていけるんだということを、体現してみせた。それが簡単でないことは、東欧の国々を見れば分かる。

今回はサッカーというスポーツだったが、別に何でもいい。崇高で巨大な目標に向かっていけば、憎しみなど二の次になるのではないか。
あまりにも楽観的すぎる考えだが、その可能性の片鱗を見せてくれたスペイン代表は本当に素晴らしい。


そして、ドイツのあのタコは本当に凄い。

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