SNSは、結局暇人がゲームで時間をつぶすサービスになった

ちょっと過激なタイトルだけども、最近思っている正直な気持ち。

mixiアプリが始まってもうすぐ一ヶ月。人気が出たのは、予想通りテトリスなどのゲーム系サービスだ。
Facebookの後を追うように、そしてアイテム課金で大成功を収めたGREEに続くように、mixiが選択したのはこのmixiアプリだった。

初めてSNSに触れたとき、これはすごいサービスだと思った。
旧友や、新しく友達になった人とゆるやかにつながれる。

どうしても疎遠になってしまうような間柄の人との、今までなら諦めていたような「つながり」を無理なく保持していられる。
正にネット上でしか体現できない、人と人との関係性を根本から変えるサービスだと思った。

しかし、いかんせんSNSは飽きる。
mixiにも、GREEにもログインしなくなり、Myspaceでできた、会ったことのない異国の人とのつたない英語のやり取りも途絶える。
今となっては、結局無理につながりを求めていただけだったのだろうかとさえ思う。

Facebookが革新的だったのは、難攻不落の巨人、Myspaceを打ち破れたその理由は、オープン化したことだ。
すでに持つ顧客という資源を、外部に開放してサービスを作らせる。
運営元としては、自分たちは何もせずに儲けることができ、デベロッパーとしてはその巨大な資源がビジネスチャンスになる。正にWin-Winの関係だ。

では、それで何ができたか。
ゲームだ。

現在Facebookでもっとも人気があるといわれる「Farm Ville」や「Restaurant City」。
これらは友達を雇ったり、招待できたりする面白いサービスだ。
でもゲーム単体として捉えれば、単なるありきたりな箱庭ゲームである。それこそスーパーファミコンでも再現できるような、ライトユーザ向けだ。

ユーザは、毎日ログインしてこつこつお金をためることもできるが、面倒な人はリアルマネーを投じる。開発元は、そうして収益を得ている。

果たしてこれらのサービスと、韓国系のCyworldやハンゲームに違いがあるだろうか。
友達と競って、招待して、チームを組んで… そんなことは、彼らはもう10年以上前からやっている。

Facebookはおしゃれで、ハンゲームは子供向け。Facebookは恥ずかしくなくて、ハンゲームはちょっと憚られる。
ただそれだけではないだろうか。

SNSユーザがゲームを使えば使うほど、ゲーム内で知り合う人が増え、友達登録をしていく人も増えるだろう。
mixiアプリが充実すればするほど、皆がゲームを使えば使うほど、そうしたつながりがSNS内を支配していく。

そうして、リアルな友達同士はSNSから離れていく。

本当の意味でコミュニケーションしたい人は、結局携帯メール、もしくは通常のEメールのやり取りになるんじゃないか。
結局、インターネット勃興期の、いわばもっとも基本的なサービスに立ち戻るんじゃないかという気さえする。

SNSというものの(少なくとも今のところの)最終形態は、結局、韓国のコミュニティサイトが10数年前からやっていることだったのではないだろうか。
それが悪いとは全く思わないし、収益化が難しいSNSというサービスがなるべくしてたどり着いたゴールなのだとも思う。

ただ、何というか、Facebookに過剰な期待をしている人が多いけど、結局そういうことなんじゃないかと思う今日この頃。

TwitterになりそこねたYahoo!

「思ったことをひたすらつぶやき続ける」
他にもさまざまな要素があるものの、基本的にはこれだけで爆発的な人気を持つことになったTwitter。しかし、実はこのTwitterになり損ねたサービスが米国のYahoo!にあった。それはつい先日終了することが決まった「Yahoo! 360°」だ。

Yahoo! 360°は2005年3月、完全に後塵を拝したMySpaceに追いつくべく開始されたSNSである。
日記や写真、プロフィールなど、SNSとして最低限の機能がすべて備わっていた。

そして、Yahoo! 360°には「blast」と呼ばれる特徴的な機能があった。これは「何気ないひとこと」を書くものであった。
吹きだしの形にデザインされた見た目は、現在のmixiのエコーに似ている。ただこのblastは、その日の気分によって吹きだしの形を変えたりすることもできた。
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※拾い物で恐縮ながら、②と表示されているところがblast

しかし、決定的な違いがあった。blastは上書きされてしまう仕様だったのだ。
あくまで「何気ないひとこと」を書くためのものだという位置づけだったのか、blastは新たに書き込むと前のものが消えてしまった。もちろん、個別のURLもない。
「履歴を残したかったら、短くても日記に書くだろう」スタッフはそう思っていたのかもしれない。
そのほかには「返信が投稿ではなくメッセージで行われる」という特徴もあった。

遅れること1年4ヶ月、2006年7月にTwitterが始まる。

その後の流れはご存知の通り。
かたや、膨大なデータベースからGoogleをも脅かす存在になろうとしているTwitterと、サービス終了はおろか、会社自体も傾きつつあるというYahoo!である。

もちろん、Followの概念だとか、積極的にオープン路線をとったことが勝因の大きな部分だろう。
しかし、もしあの時Yahoo! 360°が「blastを日記と同じように残せるようにしよう」と判断していたら、その頃のYahoo!の力を考えれば今頃Twitterはなかったかもしれないし、Googleと対等の力を持っていたのかもしれない。

ちょっと考えすぎかもしれないけど、ほんの些細な決定が、その後大きな違いをもたらす、ということは往々にしてあるのではないだろうか。
それは「最先端の技術の誕生」ということでなくとも、ちょっとした発想の転換によることもあると、この例が示しているように思う。

「男の子牧場」は意外と面白いかも

サイバーエージェント、男性情報を共有するサイト「男の子牧場」を開始

略して「おとぼく」。
「婚活」「草食系」などのBuzzワードを頻繁に使っているが、サイトの区分としては出会い系ということになるんだろう。

ブログ、Twitter界隈では予想通りネガティブな反応が多いが、個人的には今までにない面白いものだな、と感じた(まだ利用はしてないが)。

理由は、
・女性が自らの顔を出さなくてよい
 →出会いを求める女性は多いが、自分の写真を表示するのはかなりの抵抗がある
・男性は「自分で登録したわけではない」と言い訳できる
 →何かあったら「オレは嫌だったんだけどさぁ…」と言える
・女性 > 男性という明確な線引きをしたことにより、ある程度開き直った、明るいコミュニティ形成が期待できる

そして、サイトへの積極的な参加を促すためのモチベーションも、男女別に用意されている。

■女性のモチベーション
・たくさんの男性をストックすることで周りからの注目度が上がり、他の女性から「友だちになって欲しい」とアプローチが来る。そうなれば、自分が出会える男性の数も自然と多くなる。
・男性に出会いを提供することで感謝される。

■男性のモチベーション
・とりあえず登録しとけば、何もしないでいい。自分からは動けないものの、女性の側からアプローチしてくれる。
・不特定多数ではなく、自分を登録した女性が承認した相手にしか写真を見られる事はないので、抵抗感は薄い

こんなところかな。

ネーミングも含め、ネガティブな反応が来ることは十分予測していたはずだ。
「ひどいネーミング」「男は家畜か!」

しかしこれで逆に話題となり、宣伝になった。もちろんそこまで計算していただろうし。

ただ、女性専用となっているがそれを確認する術が(どうやら)ないため「複数の男性が、女性のふりをしてお互いを紹介しあう」という利用方法も可能だろう。

そして何より大きな障害だと思うのは、最終的なアクションが女性に委ねられている、という点。
顔がタイプで年収がよくて、趣味も合う最高の男性がいたとして、その情報を持つのが会ったこともない他人、最悪、女性と偽って、写真もイケメンに偽っている男性の可能性があると考えた場合、一般的な女性が「会いたい」と自らアクションするかな。

これを解決するためには、既に知り合い同士、または例え会ったことがなくても信頼関係が構築できる、濃密なコミュニケーションが可能なつくりにする必要があるだろう。

一般的になるかどうかは分からないが、今までにないタイプの面白いサイトではあると思う。
話題性だけで終わらず、大化けする可能性もなくはないかも。

カフェスタ終了に思う SNSの収益の難しさ

カフェスタが終わる。このニュースは私にとって、結構な衝撃であった。
ピンチだからアバター買って」と訴えたのは記憶に新しいが、そのときから今まで「カフェスタもか…」とある種の絶望感に包まれた。

カフェスタの開始は2002年7月。mixiとGREEが2004年なのだから、その早さが分かる。
アメリカのFriendster、Myspaceではなく韓国に影響を受けた、事実上日本初の本格的SNSサイトだったのだ(「SNS」という言葉すらまだ存在しなかったが)。

もちろん今のmixi程度の規模ではないものの、彼らは一時期は日本のコミュニティサイトのさきがけとしてその地位を独占し、収益も上げていた。「カフェスタの一人勝ち」と言われていた時代もあったのだ。
しかし、彼らのライバルはすぐに現れた。それが「ハンゲーム」だった。同じく韓国の流れを受けた同サイトは、持ち前の「ゲーム開発力」であっという間にカフェスタを追い抜いた。それまでカフェスタも自前の「カフェスタゲーム」というものを持っていたものの、ハンゲームに比べればあまりにも貧弱であった。

個人的に、カフェスタの敗因は「アバターそのもの」にもあったと思う。

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上がカフェスタで下がハンゲームのそれだが、カフェスタのアバターは語弊を恐れずに言うならば、どうも「韓国くさい」。日本人が好むような絵柄ではないと思うのだ(実際、韓国のアバターは今でもこんな感じだ)。
両者がメインターゲットとしている低年齢層の日本人にとって、どちらが「かわいい」と感じるかと言われれば一目瞭然だろう。
しかし悲しいかな、アバターのデフォルトはそう簡単に変えることができない。カフェスタは、このアバターのまま戦わざるを得なくなった。

ショックなのは、カフェスタの収益体系(内訳は別として)が「広告依存ではない」ということもある。現在主流であり、GREEがmixiを追い越す原動ともなった「小額課金」を古くから導入しているのだ。
しかし、それでもカフェスタは終了せざるを得なかった。事業を拡大しすぎたのか、本当の理由は知る由がないが、アバター課金自体に成功しているところがある以上、元祖がこういった結果になってしまったのは非常に残念だ。

そして、やはりコミュニティサービスで儲けるのは非常に難しいと感じざるを得ない。
「人を集めて広告収入」ができているのは本当にごく一握りだけで、あとの世界中のほとんどのサイトが収益化できていない。毎日同じ人が頻繁に訪れるというコミュニティサイトの性質上、広告のCTRが非常に低いというのもあるだろう。

では何で儲けていくのか。小額課金か。GREEはそれで成功した。しかし、それを最初からやったサイトですら失敗に終わるのだ。

個人的には、それでも小額課金しか生き延びる方法はないと思う。有料会員制が厳しい現状、やはり「払う人にはとことん払ってもらう」という方式しかないのではないか。
そしてそれに伴い、マッチング、検索連動型、行動連動型、友だちフィルター型… さまざまな広告が導入されていくだろう。

コミュニティサイトの生き残りは、今後ますます激しくなっていくのだろうと思う。

日本人は間違いを恐れる

先日知人と、日本とアメリカのブログ文化の違いについて話していた。
確かに、「Blog」というものに対して両国の間には明確な差がある。

例えば、

    アメリカ:実名、事件や政治に対しての意見を書く
    日本:  匿名、日々の出来事など(日記)を書く

それ以外にも、日本で盛んな芸能人のブログなどはアメリカではまず見られない。そのような違いは、果たしてどこから生まれたのだろうか。

アメリカで生まれた「Blog」だが、今や世界中のブログの4割が日本語で書かれているという。Webサイト全体の英語の割合が6割といわれているのだから、日本人が「ブログ」を非常に好んでいることが分かる。

なぜそこまで日本で流行ったのか。まず初めに浮かぶのは、やはり匿名で気軽に書けるということがあるだろうか。
日本人は、身分を明かして自分の立場を明白にすることをあまり好まない。それは、社会の中で生きていくためにはなるべく軋轢を生みたくない、生むべきではないという暗黙のルールが存在するからだろう。

匿名であれば多少無責任なことも許されるし、社会的な信用度が上がりも下がりもしない。

しかしその割に、社会性のあるブログは少ない気がする。
政治や経済を主題に体制を批評したりするのではなく、今日のお昼に何を食べたか、というような内容が好まれる。

それはなぜだろう。
日本人の政治や社会への関心が薄いからだろうか。それも多少はあるかもしれないが、しかし決定的だとは思えない。
社会情勢が不安定になればなるほど、大衆の政治への関心は高まると思う。日本は、なんだかんだいって社会的に安定しているのだろう。本当にやばいことになれば、日本人だって政治に関心を持つはずだ。

色々意見が出たのだが、その中で「日本人は「間違える」ということを極度に恐れるのではないか」というのがあった。そして、確かにそれは言えてるかも、と思った。

私もエントリを書く際、特にデータなどは間違わないように気を遣う。文章に関しても、意見に矛盾がないか、分かりにくい表現はないか、(これでも)結構な注意を払っている。

アメリカの人は、その点では比較的寛容なようだ。内容を精読するというより、斜め読みで全体を把握し、その人の意見の大体の傾向をつかみ、そこから議論を始める。「俺はこう思うんだ、お前はどうなんだ」という具合に。
教育にも取り込まれるほど、幼いころからそういった「議論」に慣れているため、異なる意見は常に並存するものだという「常識」が根底にあるのだろう。お互いの立場を尊重しつつ、自分の理解を深めるためにも議論を好む。

一方日本は、発表する際に完璧さが求められる。少しでもおかしな点があろうものなら、その意見すべてが信用ならない、という事態になりがちだ。それに、嬉々として粗探しをしようとする人も出てくる。
データの間違いがあろうものなら、それが単純なものだとしても、鬼の首を取ったように指摘し、あげくには「捏造だ」とまで言われかねない雰囲気が、日本のブログ界、ひいては全体にはあるような気がする。

匿名であるのに、間違いを犯すことは恐れる。
そのあたりに、日本人の、よく言えばきめ細かさ、悪く言えば意見を否定されることへの過度な恐怖が反映されているのかもしれない。

どちらがいいとは思わない。それは文化の違いであり、どちらも尊重すべき事柄だから。
ただ、まったく同じものを与えられても、このような差が出るというのは非常に面白いことだし、これから登場するであろうさまざまなWebサービスはもちろん、既存のものでも、人種や民族にうまくあてはめていけば、まったく違うアプローチができるのかもしれないと思った。