日本には、まとめサイトがある(ので、tumblrは革新を起こせない)

先日、新しいエントリをUpしていないのに(正確には、してたんだけどそれとは関係ない)あるエントリのアクセスが急増した。
それは2009年の3月に書いたもので、なぜ今更?と思いアクセス解析を調べてみると、「駄文にゅうす」さんというまとめサイトに掲載していただいたからだった。

まとめサイトというのは横のつながりが強い。
翌日、今度は2chのまとめサイトで有名な「アルファルファモザイク」さんに載せてもらい、更にアクセスが伸びた。

次の日には落ち着いたが、再度「かーずSP」さん、及び「ぁゃιぃ(*゚ー゚)NEWS」さんに取り上げられ、遂にはまとめサイトの老舗「まなめハウス」さんに掲載いただいたことで、普段ほんの少ししかないアクセスが爆発的に増えた。

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私は、このような歴史のあるサイトに紹介いただけたことに喜びながら、あることに気がついた。
これってtumblrだよなと。

実はこの少し前「ネタフルバード」さんにも(別のエントリだが)クリップしてもらっていた。12/27付近がそれだ。
語弊を恐れずにいえば、tumblrとしてはおそらく最大級の影響力を持つブログに取り上げられても、この程度の増え方だった(それでも普段の倍だけど。もちろん、ネタフルさん本体にリンクいただいたらこんなものじゃすまない)。

単純に、まとめサイトにはその10倍程度の影響力があるということだ。

アフィリエイトなど、管理人によって目的はさまざまだろうが、まとめサイトを運用していくのは本当に大変なはずだ。
今まで星の数ほどの人間がこれにチャレンジし、散っていった。

確かにtumblrは便利なのだけど、面白くて新しい情報を常に追い続けるというのは、相当の労力が必要だ。
自分が面白いと感じた記事に反応がなかったときの虚脱感と戦い、その逆に無上の喜びを覚える。それを毎日続けていくのだから。

すでに多くの経験と実績を持っているこのようなまとめサイトがある以上、日本においてtumblrがその壁を越えていくのは難しいのではないだろうか。
少なくとも、まとめサイトの管理人たちは「RSS」という技術には今のところ圧勝している。多くの人は、自分の好きなサイトをRSSに登録するよりも、信頼する管理人のまとめサイトを「お気に入り」にいれているのだ。

今までの自分の経験からだと、はてぶ、Newsing、Buzzurlあたりで取り上げられることから火がつき、次にまとめサイトへという流れが多かった。その頃からその威力は薄々感じていたのだが、今回改めてエントリにしてみた。

個人的にはあまりまとめサイトを利用しないのだけど、技術者だけではなく、こういった「サーファー」たちが日本のWebを支えてきたのは事実であり、Web文化の大きなひとつとして今もなお厳然と鎮座していることを改めて感じた出来事だった。

この記事も、まとめサイトさんに取り上げてもらえることを祈りつつペンを置く(汗

ソーシャルメディアは「数の原理」に帰結する

「ソーシャルメディア」という言葉が登場して、もう何年になるだろうか。
未知なる萌芽を感じた人は多かったはずだし、今なおその理想を追い続けている人も大勢いる。
今エントリでは、その「ソーシャルメディア」および「ソーシャルグラフ」に対して、現在自分が考えていることを書こうと思う。

というのも、当初考えていたソーシャルメディアの理想型が、自分の中で徐々に変わってきつつあるからだ。

言葉の定義があまりに広すぎるが、ソーシャルメディアとは一言で言えば「従来のマス型ではない(身近な人の)口コミなどによって伝播する情報伝達の仕組み、または情報そのもの」と、私は解釈している。

そしてそのソーシャルメディアの考えのひとつに「ある特定の少数が発する情報より、大多数の人間が発するそれは正確性で上回る」というものがあると思う。
プロの凄腕ライター一人が絶賛するお店より、100人中100人がおいしいと言っている店のほうが優れているはず、という考え方だ。

しかし、少なくとも現時点ではこの原則がうまく機能していないことが多い。
真偽の分からない、適当に書いた情報、誰かを陥れるためだけに作られたもの… ネット上には残念ながらゴミも多い。
Amazonや価格.comで評判が高かったから購入したが、意外と不満が残ったという経験は結構あるはずだ。

そこで飛び出した概念が「友達フィルタ」及び「ソーシャルグラフ」である。
素性の知らない人ではなく知人が勧めているのであれば、おススメの信頼性も増すという考え方だ。

Facebookが導入し、広告を革命的に変えるといわれた「Social Ads」は、その副次物の代表格だ。
結局プライバシーの問題からすぐに中止の憂き目を見たが、改良すればソーシャルメディアの中心的な勢力として君臨するだろうと思う、がそれはまた別途。

しかしこの「友達フィルタ」を活用するためには、Web上に信用できる人間関係を保持する必要が出てくる。
リアルの知り合いを引きずり込むか、Web上でそれを構築するか。

それがtwitterやFacebook、friendfeed、またはmixiなのかはどうでもいいのだが、いわゆる「普通の人」にとってこれは中々障壁が高いと思う。それができるのはごく一部で、その他大勢はそんなにどっぷりWebに浸かっていられない。

ある商品に対する友達の評価を聞きたければ直接電話することだってできるし、会ってお茶する間に聞くこともできる。
「僕はもうテレビなんて見ない」という人がいるが、それと同じように「ネットなんてたまにしかやらない」という人がほとんどだということを忘れてはいけない。

ソーシャルグラフの考え方は非常に優れたものだが、その恩恵を受けるためには相応の労力がどうしても必要になる。

Web上でより詳しく調べる人、Web上に友達が多い人、Webを普段から頻繁に利用する人……
その格差が広がれば広がるほど、ソーシャルグラフが織りなすソーシャルメディアは、一部の人のための一部のものでしかなくなっていく。

となると、それは結局インターネットのヘビーユーザのみが使用する特異な世界の域を出ない。広義の「ソーシャル」ではなく、少なくとも「メディア」でも何でもない。

という考えを経て、私は「ソーシャルグラフ」を利用したソーシャルメディアは、少なくとも今後しばらくは主流になりえないと結論付けた。
すべての人がWeb上でソーシャルグラフを作っていける、という考え方に私は否定的である。

ではどうなるのか。
結局、物量がすべてを駆逐するのではないかと考える。
ここでエントリの最初に戻るわけだが「ある特定の少数が発する情報より、大多数の人間が発するそれは情報の正確性を塗り替える」ということに帰結するように思う。

ソーシャルメディアがその機能を果たすためには、大多数の人がその輪の中に入ることが大前提となる。
その上では、ソーシャルグラフなどの「余計な」障壁はなるべく取り除き、気軽に参加・離脱できるメディアの有体として存在しなければならない。それこそ、テレビをつけるほど簡単に。
おいしいお店を知りたいだけなのに「まずお前の友達を10人連れて来い」というのはあまりにも一見さんお断りすぎだろうと。

そうなってはじめて、テレビ、雑誌、ラジオ、そしてWebの中から、利用者はもっとも都合のよい媒体を選んでいくはずだ。

たとえばレピュテーションのシステムでも、古くから行われているレビュー自体に「参考になった/ならない」をつけるなど、その正確性を上げていく試みはもっと色々あっていい。
Amazonの「10人中○人」では信頼性が低いかもしれないが、Yahoo! ニュースのコメント欄のように何万もの評価がつくことにより、情報はより平準化されていくはずだ。
ソーシャルメディアが生き残るためには、物量を多く取り込むことこそがまずすべきことなのではないか。

Web上にソーシャルグラフを構築することは難しくても、ソーシャルメディアをまだうまく使っていない人を取り込むことは可能だ。使いこなしていない人がほとんどのはずだから。

そんなことを思った2010年元旦。
今年もよろしくお願いいたします。

メディアは「新型インフルエンザ感染者第一号」を待っている

新型インフルエンザの報道は、やれどこの誰に「感染の疑いがある」とか、メキシコでは何人亡くなったということばかりで、無為に不安を煽っているように見受けられる。
「パンデミック」というある種のバズワードが一人歩きし、場合によってはペストやスペイン風邪のように、世界中の何割もの人が死に至るかのように一般市民をおびえさせているような気がしてならない。

ここはいったん落ち着いて、現状を再確認してみたい(エントリ執筆時点)。

    ・メキシコ国内での感染は落ち着き始めている
    ・ウィルスはあくまで弱毒性で、完全に治癒した人もいる
    ・メキシコ以外で亡くなった方はアメリカ人に一人。ただし、元々持病を持っていた
    ・今回のウィルスの分類である「H1N1」は、過去のスペイン風邪、香港風邪と同じ(分類が同じでも対処法は同じではない)
    ・現時点では弱毒性でも、強毒性へ変異することがある
    ・「パンデミック」は人から人へ感染することが、世界の一定範囲で確認された場合に宣言されるもので、ウィルスの強さや致死率などとは無関係
    ・新型でない(季節性の)インフルエンザが5月になってもいまだに収束しておらず、患者数は数千人規模ではるかに多い

という感じで、もちろん注意すべき点はたくさんあるものの、世界人口の何%が死んでしまう、というようなことは考えにくい。
むしろ、秋に訪れる可能性があるといわれる「強毒性への変化」と、それに対するワクチンの対応状況などを積極的に報道すべきではないのだろうか。

こういうと語弊があるだろうが、メディアはある意味で日本ではじめて感染する人を待っている節がある。
強きを挫き、体制の闇を暴くのが彼らの仕事のはずだが、実際のところわが国のメディアがそうなっていないことは、もう認めざるを得ない。視聴率や発行部数が何より大事なメディアにとって「日本初の新型インフルエンザの感染者」というのはセンセーショナルな衝撃をもってトップニュースになるはずだからだ。

「メディアは国民を映す鏡」というけれど、過剰に反応すればするほど、おかしな方向にいくような気がしてならない。
少なくとも、海外から帰ってきた「疑いがある」程度の人をいちいち数え上げて報道しているのは、日本くらいのものではないだろうか。

慎重なのはいいとしても、インフルエンザで高熱にうなされている子どもや若者に対し「良かった。新型じゃなかった」と胸をなでおろす、みたいなのはちょっとおかしいだろう。