はてブコメント欄の「要約機能」としての優秀さ

私は、はてなブックマークのヘビーユーザーだ。
ホットエントリは毎日必ず見るし、日によっては何度もアクセスする。

いや、正直に言おう。暇な時は全ジャンルをくまなく周回してしまう。

そんなはてブで、たまに、「気にはなるが、読むほどではなさそう」という記事に出会うことがある。

私はそんな時、はてブコメントを参照することにしている。
はてなスターが多くついたコメントを見るだけで、その記事の概要が分かるからである。

例えば今日話題になったこの記事。
車に乗らなくなった米国人 若者は「忙しいから」免許を取らない:JBpress(日本ビジネスプレス)

タイトルで「おや?」と気にはなったけど、なんとなくじっくり読む気にはならない。
ということで、早速はてブコメントを見た。

(現時点で)はてなスターが多く付いているコメントは、

allezvous
公共交通機関がなければ車離れは成立し得ないから、アメリカでも都市への集中が始まっているってことか。たぶん、移民は農村に居着かず都市で暮らす一方、農村の住民が減り始めてるからだと思うが。
tamtam3
走行距離が減ったのは、激安でそこそこ快適な長距離バスがシノギを競ってるからだよ(ぼそっ) チャイナバスやメガバスだと2000円チョイで500㌔ー1000㌔走るんだぞ・・・
lastline
でもこれ、そこそこ都会に限った話だと思うけどな。アメリカの郊外は車ないと生活できないし

これだけで、
・米国と言っても、主に都市部の話
・交通機関が発達した日本(東京)と同じような現象

ということが、わずか数行で分かる。これで更に興味を持てば本文を読めばいいのだ。

(私にとって)ラッキーな事に、このコメント欄で、はてなスターをもらって自己承認欲求を満たすことに、心血を注ぐ人たちがいる。
100文字の字数制限の中、いかに的確に記事内容を要約、指摘、批判できるかにネット上の居場所を見つけんとする職人たちが「はてな村」には大勢いるのだ。

しかも、はてな村民はインターネットリテラシーが高く、常識もあるため、Facebookで人気となるような感動系の記事にも、ひねくれた、もとい、こじらせた、いや、異なった着眼点を教えてくれる。

文字にすると皮肉っぽくなってしまうけども、そんなことはない。本当に。
私は、社会を見る視点において一定以上の良識を持つという意味で、はてブユーザを信頼している。

ただ、入りたくはない。ちょっと遠くから見ていたい。

とにかく、はてブコメントは「ソーシャルの力で高度に研ぎ澄まされた記事要約機能」としても大変便利なので、そんな使い方どうですか、とオススメする次第。

可視化されたのはバカではなく、義憤に燃えた人たちではないか

「バカが可視化される時代」とどう向き合うか
「うちら」の世界

この二つの記事の「バカをやっちゃう人」については、ほぼ同意見だ。彼らは昔から一定数以上いたし、これからもいつづける。
視野範囲は狭く、ネットに顔写真を載せることの本質をきちんと理解していない。リアルで干渉されないのに、なぜネットではこんなに袋叩きに遭うのか、その感覚もよく分からないだろう。

そういう意味で「バカが可視化した」というのは確かにその通りだけど、おそらく、もっと明確に我々の目の前に現れた、今まであまり見えなかった人種というのは、「義憤に燃えた匿名の人たち」ではないだろうか。

夏の暑い日、客がいないコンビニで、店員が悪ふざけでアイスのケースに入っていたところを偶然目撃してしまった。
見てみないフリをする人もいれば、不快感で店を飛び出す人もいるだろう。中には、バカだなぁ~、と思わず笑ってしまう人もいるのではなかろうか。

しかし、その場で激怒して猛抗議し本社に電話までかける人は、感覚的にはそれほど多くないように思う。
なぜなら、その場を抑えた写真でも撮っていない限り証拠もなく、味方も皆無だからだ。店員が否定すればそれで終わってしまう。振り上げた拳をそっと振り下ろすのは、ちょっとした敗北感すらある。

その点でインターネットという装置は「義憤に燃える匿名者」にとって大変有利なものだ。

糾弾するための紛れもない証拠がある
怒れる自分は大勢側の人間である
悪いのは絶対的に相手であり自分には一分の非もない
名前も顔も晒すこともなく思う存分相手を攻撃できる

という好条件がそろっているのだから。

「悪いやつを成敗したい、批判したい、正義を振りかざしたい」という欲望、間違っていることを糾弾したいという欲求は誰もが持つだろう。そして、一部の人はその欲求レベルがとても強く、犯した過ちの大小に関わらず、相手を可能な限り不幸のどん底に陥れたいという欲望を持っている。これは、分かっているのにバカなことをやってしまう人たちと同じく、一定数以上存在するのだ。残念ながら。

私は、ネットはすべての現実社会を拡大する機能がついた装置だと思う。だから「バカだけが目立った」のではなくて、今までもそういった「糾弾する世間」というのはあったのだけど、それが非常にうまく機能するようになった、ということではないだろうか。

だから「バカやっちゃう人たち」や子供には、そのような「世間」の存在を説き、「何だかわからないけど、ネットでやらかすととにかく恐ろしいことになる(でも良いことをすればその逆にもなるよ)」と教えておく必要があるのかもしれない。

会社や学校をクビになり、下手したら自殺まで追い込んでもなお、嬉々とした快感を覚える人がいる。これはもう仕方ないのだ。躊躇もなく人を殺す人がいるのと同様、世の中にはそういう類の人がいる。残念ながら。

では、誰もがこういった発信力を身につけた今後の社会は、一体どうなるだろう。あらゆることが規制され、ガチガチの生きにくい社会が出来上がるだろうか。

私は、結論からすると「慣れる」だろうと思う。
人間の「慣れ」耐性はなかなか恐ろしいものがある。飛行機だってネットだって、少し前ならとても信じられない代物なのに、我々はもうそれがなくては生活できない。

今までは「近所のバカ」だった人が、「ネットのバカ、世界に公開したバカ(褒め言葉)」になるだけで、なくなることはない。社会的な糾弾もそれなりに受けることだろう。しかしそれが当たり前になると、世間はあっという間に飽きて「またか。まぁそういう人もいるよね」程度の状況になるのではなかろうか。
だって、コンビニの冷蔵庫に入るくらい、別に大したことじゃないでしょ?

デマを信じさせ、上手に拡散させる方法

twitterやfacebook、いわゆる「ソーシャルメディア」の発達で、誰もが簡単に情報を発信できる時代となった。
とっておきのネタや、手に入れた特ダネを披露して、他人に承認されるのはとても気分がいい。

たとえそれに信ぴょう性がなかったり、仮にまったくのウソだったとしても、自分の承認欲求には代えられない。

そこで今日は、デマをうまく信じてもらうための方法をまとめてみた。

当然のごとく語る

最も簡単なのが、このまるで常識のように語る手口。
さも当たり前のごとく断言すれば、情報ソースを提供する必要もない。

受け取った側に「こんなことも知らないなんて恥ずかしい」と思わせたらもう勝ちである。

「○○が△△教の信者っていうのは、有名な話だからな」
「まぁXXが体に悪いのは、誰でも知ってると思うけど」

有名人の名前を出す

情報に信ぴょう性を持たせるために、有名人の名前を出すというのは最もポピュラーな方法だ。
この場合「その人がいかにも言いそうなこと」であると効果はさらに高まる。

「この間ドコモの部長が講演で言ってたけど、iPhoneは今年中に出るらしい」

最近では、twitterでRTさせるという手もある。名のある有名人がRTしたとなれば、その情報に箔が付くことはうけあいだ。
「福島小学生が原発放射線で死亡」 坂本龍一ツイッターでデマ「拡散」

別の情報を否定する

まず否定から入り、信ぴょう性を持たせるパターン。
否定される情報もデマで構わないため、かなり簡単に効果を最大化できる。

「○○が前科者だっていうのはデマ。実際はその友人の△△」

最初の情報をあえて大げさにし、信じやすくさせるという技術もある。

「○○病院が急患を30人診断拒否したってのはデマ。本当は5人」

混乱に乗じる

最近では、東日本大震災後によく見られた手法。
みなが正確な情報を求めている時に、それらしいことを発信すれば、信じてもらえる可能性が高くなる。

「イソジンを飲むと、放射能対策になる」
「総務省の幹部はもう全員九州に避難している」

いかがでしたか?
これらを駆使して、うまく承認欲求を満たしましょう。

ただ、ネットの世界は匿名だけど、本気で調べようと思えばできちゃうから、くれぐれも気をつけましょうね。

RSSは死なない、続いていく ただし細々と……

Google Readerが終わるという。これはかなりショックだ。
毎日どころか、一日に何度も利用しているサービスだから、なくなった後の生活が想像しがたい。

確かに、RSSはいわゆる「一般の人」が使うには敷居が高いだろう。

日本には、まとめサイトがある(ので、tumblrは革新を起こせない)

Google Readerが始まって8年。ここまで使わなかった人たちが、この先使うことはまずなさそうだ。

技術屋は特に、技術の進歩は無限に突き進むと思うフシがあるが、サービス単位に落ちると必ずしもそうではない。例えば、音楽ソフトのイコライザーはもっと細かく設定できるはずだが、そんなもの難しすぎて普通の人には使えない。
RSSは素晴らしく便利な技術だが、それをあえて封印することによる世界の描き方というものは、確かにある。

今回のGoogle Readerの終了は、インターネットがより一般的になったことの証左だろう。
Webの技術の進化も、ここらで一休みする段階に来たのかもしれない。

RSSは、Google+をはじめとしたソーシャル系のサービスに統合されるのでは、という意見もある。
しかしそれは的を外していると思う。たとえサービス提供者の思惑がそうだとしても、世界はそんなに画一的にならない。
知り合いばかりの生ぬるい環境が面白いか? 頭をガツンとやられるような、刺激的な情報はそこから得られるのか?

私のような「情報ジャンキー」に限らず、一度便利な体験をしてしまうとそこから戻ることは難しい。ほぼ不可能に近い。
例えば前述のイコライザーが音楽愛好家に利用されているように、RSSやその他有益な技術は、一部のジャンキーたちの手によって密かにもたくましく受け継がれていくはずだ。

実際、多くの企業や団体が(それが商業的な理由であれ)、RSSを継承しようとしているではないか。

Google Readerユーザー獲得に各社が名乗り ヤフーは「引っ越しツールを爆速準備中」

Google Readerの終了は確かに悲しい。
しかしこれは、インターネットがより普遍的になったという朗報と捉え、次のステージに進むのがポジティブな考え方ではないだろうか。

「顔が見える支援」を安易にやるべきでない理由

studygift関連の炎上は「Campfireなだけによく燃えましたね」などと言っていられないほど、中々どうしてすさまじかった。
女性はめちゃくちゃに責められ、男女関係モゴモゴ、ついにはリーダーの家入一真氏が謝罪するに至った。

ここまで随分かかったなという印象だけども、謝罪文の中になお、気になる点がある。

「顔の見える新しい支援の形を実現したい」。 ~中略~ 僕が実現したかったのはまさにここでした。従来の “どんな人にいくら渡るのか解りにくい寄付” では無く、 “この人に共感するから支援” を実現したかったのです。

この「顔が見える支援」はとても崇高な理想だが、同時にとても難しいものだ。

寄付や支援は、決して少なくない「貸し借り」の概念が発生する。もちろん、寄付したのだから貰った側がどう使おうが勝手なのだが、残念ながら支援側の「あれは自分の金」という感覚は消えない場合がある。

だからこそ「あしなが育英会」のように「具体的に誰」というのはわからない形態になっているのだし、臓器のドナーにしても匿名で行われているわけだ。

例えば、被支援者が将来的に大成功して支援者と再会したとする。

おそらく家入さんはこの「邂逅」を美しいものだと捉えているだろう。「あ、あなたはあの時の……」というような。もちろんその可能性もある。

けれど「あの時、お前を助けてやったのは俺だ。だから見返りをよこせ」となる可能性は本当にないだろうか。善意や期待は、それが裏切られた(と本人が感じた)時、凄まじい負の暴走を起こすことがある。身の危険さえ危ぶまれるほどの。

スタッフはそこまでリスクを受容した上で、サービスを設計したのだろうか。少なくとも、それを彼女に説明してやったのだろうか。

<理想>
・支援した側された側がともにハッピーな、透明な仕組みを作りたい。
<リスク>
・支援という形で何かしら恩を着せたい、弱みを握りたい、見返りを受けたいと思う人がいること。

今回のサービスはあまりにも性善説に頼りすぎてしまったのかな、という気がしてならない。

何か新しいサービスや企画を思いつくと「これは新しい! 他のどこもやっていない!」という、もう鬼の首を取ったような躁状態になることはよくある。
しかし「誰もやっていないこと」は、えてして「あえて誰もやらなかったこと」だったりする。やらないのは、やらないなりの理由がある。
ウェブサービスはスピードが命でそれこそが醍醐味でもあるが、今回の場合は少なくとも「2,3日で勢いで作っちゃいました。テヘ」で済まされるテーマではなかった。

今後は、例えば
・支援者側は顔を出さない
・寄付金を(一般的に「支援した」と言えるほどではない程度に)少額にする
・対象を分散する

くらいの対策は必要かもしれない。家入さんの理想とは離れてしまうかもしれないが。

「学費に困っている学生を助けたい」という思想はとても有意義なことであると思う。それに対して動き出したチームに非難だけを浴びせるのは建設的ではない。
だからこそ「誰も傷つかないこと」を最優先とした、慎重な仕組みを作りを期待します。