日本人は間違いを恐れる

先日知人と、日本とアメリカのブログ文化の違いについて話していた。
確かに、「Blog」というものに対して両国の間には明確な差がある。

例えば、

    アメリカ:実名、事件や政治に対しての意見を書く
    日本:  匿名、日々の出来事など(日記)を書く

それ以外にも、日本で盛んな芸能人のブログなどはアメリカではまず見られない。そのような違いは、果たしてどこから生まれたのだろうか。

アメリカで生まれた「Blog」だが、今や世界中のブログの4割が日本語で書かれているという。Webサイト全体の英語の割合が6割といわれているのだから、日本人が「ブログ」を非常に好んでいることが分かる。

なぜそこまで日本で流行ったのか。まず初めに浮かぶのは、やはり匿名で気軽に書けるということがあるだろうか。
日本人は、身分を明かして自分の立場を明白にすることをあまり好まない。それは、社会の中で生きていくためにはなるべく軋轢を生みたくない、生むべきではないという暗黙のルールが存在するからだろう。

匿名であれば多少無責任なことも許されるし、社会的な信用度が上がりも下がりもしない。

しかしその割に、社会性のあるブログは少ない気がする。
政治や経済を主題に体制を批評したりするのではなく、今日のお昼に何を食べたか、というような内容が好まれる。

それはなぜだろう。
日本人の政治や社会への関心が薄いからだろうか。それも多少はあるかもしれないが、しかし決定的だとは思えない。
社会情勢が不安定になればなるほど、大衆の政治への関心は高まると思う。日本は、なんだかんだいって社会的に安定しているのだろう。本当にやばいことになれば、日本人だって政治に関心を持つはずだ。

色々意見が出たのだが、その中で「日本人は「間違える」ということを極度に恐れるのではないか」というのがあった。そして、確かにそれは言えてるかも、と思った。

私もエントリを書く際、特にデータなどは間違わないように気を遣う。文章に関しても、意見に矛盾がないか、分かりにくい表現はないか、(これでも)結構な注意を払っている。

アメリカの人は、その点では比較的寛容なようだ。内容を精読するというより、斜め読みで全体を把握し、その人の意見の大体の傾向をつかみ、そこから議論を始める。「俺はこう思うんだ、お前はどうなんだ」という具合に。
教育にも取り込まれるほど、幼いころからそういった「議論」に慣れているため、異なる意見は常に並存するものだという「常識」が根底にあるのだろう。お互いの立場を尊重しつつ、自分の理解を深めるためにも議論を好む。

一方日本は、発表する際に完璧さが求められる。少しでもおかしな点があろうものなら、その意見すべてが信用ならない、という事態になりがちだ。それに、嬉々として粗探しをしようとする人も出てくる。
データの間違いがあろうものなら、それが単純なものだとしても、鬼の首を取ったように指摘し、あげくには「捏造だ」とまで言われかねない雰囲気が、日本のブログ界、ひいては全体にはあるような気がする。

匿名であるのに、間違いを犯すことは恐れる。
そのあたりに、日本人の、よく言えばきめ細かさ、悪く言えば意見を否定されることへの過度な恐怖が反映されているのかもしれない。

どちらがいいとは思わない。それは文化の違いであり、どちらも尊重すべき事柄だから。
ただ、まったく同じものを与えられても、このような差が出るというのは非常に面白いことだし、これから登場するであろうさまざまなWebサービスはもちろん、既存のものでも、人種や民族にうまくあてはめていけば、まったく違うアプローチができるのかもしれないと思った。

民族問題に接する際、自分が考えること

昨日のエントリに多くのコメントをいただき、その多くが大変有用なものだったので、コメントへの返信ではなく再度エントリにしてその代替とさせていただきます。

皆さん、多くのご意見をいただきありがとうございました。
色々な立場の方から多面的なご意見をいただき、自分ひとりでは持ちきれない物の見方を学べました。ありがとうございます。

私が前エントリで主題としたかったのは、どんなに相手に罵倒されたとしても、それにいつも罵倒で返していたら結局自分も同じレベルということになるし、いつまでたっても終わらないのでは、ということでした。
例えば相手が何か自分たちにとって不利益なことを発言や行為をしたとして「○○はバカだから」となると、向こうも負けじと「何だこの野郎」となるともう何か意味がないんじゃないかなと。

と言いつつmocchiさんがおっしゃるように、私自身が他者を非難するような論調で書いており、それは本当に周りが見えていないというか、大変反省しております。

韓国や中国の、マスコミ以外の一般の人でも「反日」が多いというのは間違いないですが、例えばその原因が学校教育で「反日」を叩き込んでることだったり、扇動的なマスコミだったとしたら、やはりそんな「日本の情報を故意に歪曲した」教育なり報道を施している側に問題があるはずで、(大げさに言えば)戦時中の日本で「天皇バンザイ」と教えられてきた人たちを責められないのと同じように、その教育する側なり、報道する側に問題を見つけるべきかな、と思います。
日本が中国に対して多額のODA援助しているのを、中国の一般人がほとんど知らないっていうのも、政府が意図的に教えないからですよね。

もし自分が正しいのに向こうが矢のように罵倒してくるのなら、じゃあ何なんだ、何が原因でこんなこと言われなきゃならないんだ、と考えたり相手に伝える方が結果的にお互いにとって良いんじゃないかと思うんですよね。

それに、rennon_09さんがご指摘くださったように、そこには政治勢力が大きく絡んで、自分たちの利益のために大衆を少なからず扇動している部分があるはずなんで、そこにまんまと乗せられるのもかっこ悪いかなと。

その上で「××人はこれだから…」とか「民族問題は根が深くて解決しないよね」で終わってしまうのは、思考の停止かなと思うんですよね。

暴力団に朝鮮系が多いことも、パチンコ屋が利得をむさぼっていることも、私もものすごく嫌だけれど、「これだから朝鮮系は嫌いだ。日本から出て行け!」と言っても出て行かないし、じゃあ何でそうなってしまったのか、今が嫌ならどうすればいいのか、まだ私には解が見つからないけど、それを考えて行動していくことしか解決にならないんじゃないのかな、と思っています。それが「パチンコには絶対行かない」とかそういうことだったとしても。

日韓や日中、それに世界中には数え切れないほどの民族紛争があって、それがすべて解決するものでもないとは思います。何百年、何千年とできなかったわけですし。根本的に、絶対に合わない人って(結構たくさん)いますからね。
個人的な意見ですが、やはりどうしても価値観が異なって付き合えない人というのはいると思います。例えが極端ですが、訳の分からない猟奇的殺人を犯すような人と普通に仲良くはなれないでしょう。しかしひとつの国なり民族を括って「全部そういう人間だ」ってことはないと思うんですよね。
そういう人が憎しみをもってぶつかってきたら、マザーテレサのように全部包み込むのはそりゃ無理だけど、とりあえずスルーするとか。

ネットでいろんなことが便利になって、それを人を罵倒したり憎しみを増幅させるために使うっていうのも寂しいんじゃないかと。

それと、ここからは個人的な願望ですが、お互いを「個人」として理解するには、インターネットというのはとても有用だし、国籍とか関係なくこれだけ簡単に話ができるようになったのだから、もしかしたら、少しずつでも前に進めるのかもしれないという希望は持ちたいですね。

結局言ってることは「憎しみは負の連鎖にしかならない」っていう、ただの理想論なんですが。

皆さんのご意見は非常に参考になりました。最後にもう一度御礼を申し上げます。

ペットは、飼うこと自体が人間のエゴ

昔勤めていた会社の近所に、大型のペットショップがあった。
営業時間は、確かお昼頃から夜中の12時くらいまでだ。

その間、生まれたばかりの子犬や子猫が通りに面したショーケースに入れられ、道行く人にさらされている。
多くの人が足を止め、「かわいいー」とか「欲しい!」と声をあげていた。

人間が動物と共に生活するようになったのは、生活のためだ。
牛は乳を出すし、羊は毛が加工できる。馬を移動手段に、鳥は手なずけて魚をとる手段にした。

ただ、その中でも特に犬と猫はその愛らしさゆえに「愛玩」という目的のみで人間と共に暮らすようになったのだろう。

彼らは人間に都合のいいように改良され続けた。足は短く、瞳は大きく、体は華奢に…
そうして、およそ自然界では生き残れないような生物が次々と生み出されていくことになった。

猟犬に狩りをさせて生活している人は別として、現代社会においてペットを飼う目的は、ヒトの「寂しさ」やら「生きがい」を埋めることだけ、というのに異論はないと思う。

人間が欲求を充足するのは勝手だ。
しかし、それに使われた動物たちも同じように満足できる日々を送っているのだろうか。

例えば、犬は主従関係を好む。飼い主を「主人」として敬愛し、一緒にいることで満たされる。
飼い主、ペット、どちらも満足しているのだからいいじゃないか。確かにそうだ。

しかしペットの側は、実は代償としてさまざまなものを払っているんじゃなかろうか。
満足な食事と安全を受け取る代わりに、住む場所を制限され、リードでつながれ、満足に走り回ることもできない。

人間の側には代償があるだろうか。
ペットがいることで自由に外出できない、部屋の掃除が大変、諸々の費用がかかる。
それらはただの「義務」で、「代償」とは呼べない。犬を飼うと一生肉が食えなくなる、というのだったら代償だけど。

人間は自ら動物たちを生産し、彼らを制限し、あえて苦労を買ってそれを消費している。

個人的な意見だが、もし自分が鳥だったらカゴではなく空を飛びたいし、魚だったら水槽ではなく海を泳ぎたい。

だから動物は飼わない。彼らに依存したくないし、彼らの命を受け止める度量もないから。
よくおかしな考え方だと言われるが、多分そうなんだろう。

もちろん、ペットを飼う人すべてを否定するつもりもない。

ただ、そもそもペットを飼うこと自体、人間の欲を満たすエゴ以外の理由がない、ということを忘れないでもらいたい。動物たちは、そのために「わざわざ作られた生物」なのだ。

別にあなたが生き物を飼わなくたって、誰も困らないんだ。

かわいいから、寂しいからという理由で安易に生き物を飼う人が多いから、日本の悪質なペットショップ産業はいつまでたっても改善されない。生まれたばかりの子犬が親から引き離されて、夜になっても明るいショーケースで不特定多数の人々の視線にさらされるというのは、生き物の営みとして異常だ。

何だか論点がずれまくりだけど、ペットという絶対的な支配下を身近に置くのなら、相応の覚悟を決めてからにして欲しいと願わずにはいられない。

[映画]『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』 マーティン・スコセッシ監督

評点:80点(ただし、ファンに限る)

はじめて彼らのライブに行ったのは、確か98年の東京ドームだった。
元々好きでよく聞いていたが、その圧倒的なパフォーマンスを前にし、電撃にうたれたようになったことは今でも忘れない。

好きでいろんなミュージシャンのライブに行っていたし、それが高じて学生時代にコンサートの会場整理のアルバイトなんかをやったりしたので、国内外のさまざまなライブを観たが、ここまで圧倒的に完成されたものを、少なくとも私は他に知らない。

曲の順序や構成、アドリブ演奏、ライティング、セット、そして観客の盛り上げ方…
すべてが緻密に計算しつくされた、いわば完璧なステージ。これはただのライブじゃない。芸術であり、現存するあらゆる形のエンターテイメントの中でも最高に位置するものなのだと、肌で感じた。

しかしこの映画を観るまで、それは彼らの非凡さによるところが多いと思っていた。何せ、彼らは「生ける伝説」なのだ。

でもそれは少し違った。彼らはセットの細部、例えばスタッフの通用口の位置に至るまで徹底的にこだわり、時期や場所を鑑みて、その豊富なナンバーの中から最適なものを選択し、本番直前まで構想を練っていたのだ。
このような裏側をわずかながら見られただけでも、私としては満足だった。

しかし、困ったのは監督のマーティン・スコセッシだ。何せ本番直前まで曲目すら教えてくれないというのだから(ただ、これはかなり演出が入っているだろう)。
必死の説得も聞く耳持たず、自分たちのスタイルを貫く4人。スタッフ同士が激しくぶつかる。

監督は、そんな自らとストーンズの対比を滑稽に映し出していた。
その手腕はさすがだし、メンバーの魅力を最大限引き出しているあたり、自らもファンだと公言するだけはある。

舞台は、NYのビーコン・シアターという3,000人程度の小さな劇場。
ライブ自体が元米大統領クリントン氏の慈善活動の一環らしく、映画の冒頭では妻のヒラリーなど政財界の大物が訪れる様子が見れる。

しかしその冒頭と、途中で挟まれる過去のインタビューなど以外はすべてライブ映像で構成されている。
マーティンの「よし、行こう。一曲目は?」に続けて始まる『Jumpin’ Jack Flash』のリフで全身に鳥肌が立つ。

2曲目は『Start me up』だが、その後は「超メジャー」ではない楽曲が続く。この辺の選曲センスは編集したマーティンによるものなのか分からないが、結構なコア・ファンも納得だろう。

ステージの間中、止まることなく踊りまくる、ミック・ジャガー。
巧みなスティックさばきがたまらなく渋い、チャーリー・ワッツ。
地味ながらも確実にギターを全うする、ロニー・ウッド。
そして、相変わらず全然演奏しない、キース・リチャーズ。

この4人の格好よさったらない。
ミックとキースは今年で66歳。チャーリーにいたっては何と68歳になるというのに、このパワフルさはなんだろう。
正に、今自分は後世何十年に渡って「伝説のロックバンド」と呼ばれるであろう人たちを観ているのだと、はっきりと確信するできる作品だ。

映画としての出来だが、もし事前に監督がマーティン・スコセッシだと知らなかったら気づかないくらい、おそらく大抵のライブ専門の監督が撮っても同じ程度の映像が撮れただろうと思う。

ただ本番当日は、会場の狭さなど相当な制約があったはずだ。
前述のようにチャリティ活動だったからか、作品内では観客がフラッシュをたいてステージを撮影している姿が散見された。これは通常ではありえないことだ。舞台上の人間の邪魔になるし、肖像権の問題もある。

そんなことが許される、またこのようなライブに招待されること自体、今回の観客は特別な階級の人たちなのだろう。

そういったやむをえない事情は仕方ない。許そう。
しかし、しかし…! 何といっても、チャーリー・ワッツの登場シーンが少ない!あまりにも少なすぎる!!
確かに覚悟はしていたが、あまりにも出ないので段々とストレスがたまった。

カメラ位置の関係なのかもしれないが、バックバンド並みに登場シーンが少ないのはありえない。
確かにミックとキースは格好いい。でもチャーリーの渋さが分からないのか! と一人で憤慨していた。

とにかく、ファンであれば絶対に観ておくべき。映画館だから下手なライブ会場より音もいい。
オールドファンになるほど、笑い泣きしながら観ることになるだろうが。

しかし「Stonesファンでなくともオススメ」なんて気軽なことは言えない。自分がファンであるから見えなくなってしまいがちだが、普通に考えて好きでもないバンドの映画もライブも別に観たいとは思わないだろうから。

彼らは正に「こんな大人になりたかった。でもなれなかった…」と誰もが思う憧れのスターだ。
しかし今度こそ、歳を取ったら今度こそこんな「かっこいいオヤジ」になりたい。そう思わせてくれる4人だった。

やるたびに毎回「これが最後か?」と言われる彼らのライブ。映像を観ると、デビュー当時から言われていたらしいことが分かる(笑)
映画もいいが、やはり本当のライブの一体感と感動には及ばない。

また日本に来ないかなぁ~~

孤独と戦うということ

ある日のこと。住宅地を歩いていると、小さな体に似合わぬ大荷物を持ったおばあちゃんが目の前を横切った。
「あー重い。あーーー重い」と言いながら歩く姿は、まるでコントのような滑稽さもあった。

「持ちましょうか」と声をかけると、待ってましたとばかりに「すまないねぇ」と言って笑った。

道すがら、おばあちゃんはいろんな話をしてくれた。この土地はもう長いのだとか、いつも買い物が大変なのだとか。
ほどなく着いた場所は、「超」がつくくらいの高級マンションだった。おばあちゃんはそこで一人暮らしをしているらしい。

ドアの前で失礼しようと思ったのだが、半ば強引に誘うおばあちゃんに根負けし、部屋の中に入った。
そして、玄関で少し異様な光景を見た。

開いた状態の無数の傘で埋め尽くされ、その他にもさまざまなものが置かれてまるでバリケードのようだったのだ。

おばあちゃんは「ここの管理人はひどい。留守のときに勝手に家の中に上がって、お金を盗んでいくんだ」と言った。だからこうして入りにくくしているのだと。

部屋は3LDKほどもあり、調度品も豪華なものばかり。驚きのあまり聞いてみると、すべてアメリカに住む息子さんに払ってもらっているのだそうだ。
何をしている方かまでは聞かなかったが、おそらく相当な成功を収めているのだろう。

しかし、一人暮らしの老人には明らかに広すぎるその部屋は、多くがほこりにまみれ、悪臭を放っているところもあった。
お手伝いさんを呼んだら、という提案も、管理人と同じことをされると断られた。

出してもらったお茶を飲みながら、またいろんな話をした。というより、おばあちゃんが一方的にしゃべった。

旦那さんに先立たれたこと、息子さんは二人いたものの病気で一人を亡くされたこと、親戚にはほとんど会わないこと。

そんなとき「おばあちゃんもアメリカに行ったら?」と気軽に言ってしまった。その時、はじめて少し悲しそうな顔をした。
半年に一度ほど帰国する息子さんも、同じように熱心に誘ってくれるのだそうだ。しかし、おばあちゃんは頑なに拒絶する。「日本が好き。アメリカは怖い」と、そう言っていた。

帰り際、おばあちゃんはとんでもない大金を渡そうとした。私はそれを丁重に断り、部屋を後にした。

そして、部屋を出てから思った。多分、管理人がお金を盗るというのは、おばあちゃんの勘違いではないかな。
さっきみたいに誰彼かまわずお金をあげてしまい、そしてそれを忘れてしまうのではないかと。

もちろん勝手な思い込みかもしれない。だけど、振り返ってもやはり豪奢すぎるその建物を見ていると、何だか身を切るような切ない気持ちに襲われた。

哀れんでいるわけではない。私はそんなに偉くも強くもない。

しかし、今日もおばあちゃんは、あの立派なソファに座って、玄関を傘で守りながら一人でテレビを見ているのかなとか、あの小さな体にはとても大きすぎるベッドで眠っているのかなと考えると、何ともいえない気持ちになることは確かだ。

同時に、わずか60年前には50歳そこそこだった平均寿命が80歳を優に超えるようになった現代の、いまだ解決できていない問題のひとつでもあるのだと肌で感じた。

孤独と戦うというのは、とても困難だ。時に打ち負かされそうになることもある。
これからの人生、孤独と戦うことが何度となくあるだろう。自分はあのおばあちゃんのように、凛として立ち向かっていけるだろうか。

おばあちゃん。もう一度訪ねたら、覚えていてくれるかな。